北条氏康

北条氏康を簡単にわかりやすく解説!関東の覇権を掛けた戦い!

管理人のヤスマサでござる。昨今巷では北条氏康殿を簡単にわかりやすく解説してほしいとの声が充満しておる
美紀姫
美紀姫
そうね~、わらわも興味がある。北条氏康殿と言えば、相模の獅子と言われた方でよかったか?
その通りでござる美紀姫様!北条氏康殿は偉大な祖父・早雲殿、父・氏綱殿の後を継ぎ、関東での騒乱に挑んだ人物でござる
美紀姫
美紀姫
そこに上杉謙信殿や武田信玄殿が絡んでくるわけか?
左様にござる。同盟したり戦争したりと、この二人の名将に一歩も退かず戦ったのです。そこら辺は拙者がわかりやすいブログを書きもうしたのでご覧くだされ
美紀姫
美紀姫
わらわのようなあまり北条氏康殿を知らない者にもわかるじゃろうか?
ご安心くだされ!どなたにも北条氏康殿をわかりやすく理解できるように書いておりますので、ご安心くだされ。では最後までご覧あれ!!

 

北条氏康を簡単にわかりやすく解説!

 

激しく繰り広げられる関東での激しい戦い

 

1529年(15歳)に北条氏康殿は元服いたした。

翌年の16歳の時に関東管領の両上杉氏(扇谷上杉氏と山内上杉氏)との戦いで初陣をし、見事に勝利したのじゃ!

その後も勝利し続けたが、なんと父の北条氏綱殿が他界なされた!

これは北条家にとって重大な損失だっただろう。

そして両上杉家が今川義元殿、古河公方足利晴氏殿と手を組み、北条家を攻撃してきたのじゃ!

 

美紀姫
美紀姫
ヤスマサ!何故今川義元殿は北条氏康殿を攻撃したのじゃ?わかりやすく説明しなさい

 

はっ!美紀姫様!北条家は駿河の国に領地を持っていたのでござる。駿河を本拠地とする今川家はそのことが面白くなかったのでどざる!取り返そうとして攻め込んだのです

 

上杉連合軍八万は北条家を圧倒、川越城を包囲したのでござる。

城兵は僅か3千だったが、善戦し半年も粘った。

ようやっと北条氏康殿が救援に駆けつけてたが、氏康殿が連れてきた兵は1万にも満たない。

そこで「降伏する」と敵を油断させて、夜襲をしたのじゃ。

この夜襲は北条方の大勝利となり、扇谷上杉家の当主上杉朝定は戦死してしまった。

これが有名な「川越の夜戦」と言われる戦いじゃ!

ちなみにこの戦いは日本三大奇襲の一つとされている。

 

上杉謙信との激しい戦い

 

関東に精力を伸ばした北条家は、背後の憂いを解消するため三国同盟を締結した。

 

三国同盟をわかりやすく説明すると、1554年に北条氏康殿が武田信玄殿、今川義元殿と縁戚関係になることにより、軍事同盟を締結した同盟のことです!

 

画像

 

1560年、関東管領山内上杉憲政の要請を受けて、越後の龍上杉謙信が関東に進撃してくるのじゃ!

その勢いは凄まじく、さしもの北条氏康殿も小田原城に立て籠るしか策はなかった。

上杉勢は関東諸将が集まり10万の大軍になったのじゃ!

しかし上杉謙信殿は小田原城を攻め立てたが防備は堅く、関東一円は大飢饉があったことから一か月程で撤退している。

その後も上杉と北条は一進一退の攻防を繰り広げた。

 

武田信玄との激しい戦い

 

永禄11年(1568年)、武田信玄殿は今川義元殿亡きあと衰弱の一途を辿った今川家を攻撃した。

これは言いかえれば三国同盟を破棄したのでござる。

武田信玄殿はあっという間に駿河を占領!

北条氏康殿は今川家を支持することに決め、徳川家康殿と組んで武田家を挟み撃ちしたのじゃ!

この策はズバリ当たり、さしもの信玄殿も撤退した。

 

美紀姫
美紀姫
戦国最強と言われた武田信玄殿じゃ!北条氏康殿は簡単に関東の戦いを有利に進められたのか?わかりやすく申せ

 

はっ!この後武田信玄殿は関東に出兵し、上野国(群馬県)の大半を手中に収めています。北条家は武田、上杉、里見と3方面に敵を抱えることになったため、上杉謙信殿と同盟して対抗するのでござる。この同盟を越相同盟と申しまする

 

こうして上杉謙信殿と同盟した北条氏康殿は武田信玄殿と戦うのじゃが、さすがに武田は強い。

永禄12年(1569年)に武田信玄殿は2万の兵を率いて武蔵の国を進撃、なんと小田原城を攻撃するのじゃ!

そこは難攻不落の小田原城ゆえびくともしなかったが、北条氏邦、氏輝が甲斐の国へ引いていく武田勢を追撃したのでござる。

両軍は三増峠で激突、なんと北条軍は完敗してしまうのじゃ!

その後武田信玄殿は駿河に出兵、その大半を手に入れてしまったというわけじゃ!

武田信玄殿は恐ろしい男じゃのう~

 

相模の獅子!病に倒れる

 

北条氏康殿は元亀元年(1570年)8月頃から中風とみられる病に羅漢していたのでござる。

そして元亀二年(1571年)10月3日、北条氏康殿は57歳で小田原城で戦に明け暮れた人生を終わらせたのじゃ!

死の直前、援軍要請しても一向に援軍をよこさなかった上杉謙信殿との同盟を切り、武田信玄殿と同盟を結ぶように北条氏政殿達に遺言を残したといわれておる。

なお、北条氏康殿の勇敢な性格を表す話として、今川義元、武田信玄、上杉謙信といった強敵と戦い続け、36回も戦をしたが、一度たりとも背を見せることはなかったのじゃ!

そのため北条氏康殿は傷だらけになるのじゃが、その傷は全て前面にあり、2ヶ所の顔の傷は「氏康の向疵(むこうきず)」と称され、勇敢な証として表現されたのでござる!

相模の獅子と呼ばれるにふさわしい名称じゃのう!!

 

北条氏康を簡単にわかりやすくまとめてみた

 

いかがでしたでござろうか?

今回は相模の獅子こと北条氏康殿をわかりやすくまとめもうした。

しかし初陣から亡くなるまで戦いに次ぐ戦いの日々じゃのう。

凄まじいとした言いようがない!

しかも相手は上杉謙信殿や武田信玄殿。

二人共戦国きっての名将じゃ!

この二人と対等にやりあったのじゃから、北条氏康殿も相当の人物に違いない。

ここまでの名将なのじゃから、もうちょっと注目されてもいいのではないかと個人的には思っておる。

このブログで北条氏康殿に少しでも関心を持ってくれれば幸いじゃ!

最後までご覧くださり、誠に感謝いたす。

 

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