土方歳三

土方歳三の剣術修行を探る!修行時代の近藤勇との関係は?

管理人のヤスマサでござる。今回は土方歳三殿の剣術修行について記してみた
みほ
みほ
土方歳三さんと言えば、新選組の鬼の副長よね!強かったんでしょうね~
うむ!どうやって強くなったのか知りたくないか?それと土方歳三殿と近藤勇殿との剣術修行での関係も!
みほ
みほ
あー、それ知りたい!二人は親友だったのよね!少年期はどんな関係だったのかしら?
うむ、その点をしっかりと調査してきた。更に土方歳三殿の愛刀堀川国広についても調べもうした!では最後までご覧あれ!!

 

土方歳三の天然理心流での剣術修行

 

 

土方歳三殿の剣術修行を書く前に時代背景を説明するでござる!

 

・異国船が来航し、幕府が文政八年(1825)、異国船打払い令をだした

・そして世の中が物騒になり、無頼の輩が跳梁した

・幕府の力がかなり弱まっていた

・佐藤彦五郎(土方歳三の姉の夫)の屋敷に夜盗が入り込み、祖母を惨殺した

・佐藤彦五郎は物騒となった世の中に剣術を身につける必要性を感じ、天然理心流に入門し、自宅に道場を建てた

天然理心流は北辰一刀流、神道無念流、鏡心明智流といった有名道場に入門できない町人や農民が試衛館に入門し、更に浪人の居候もおった。

門人が少ないこともあり、台所は苦しい。

この経済難を支えたのが武州の人々でした。

武州への出張指南が重要な収入源となっていました。

この武州の剣術熱が土方歳三を佐藤彦五郎の屋敷の庭の道場に向かわせ竹刀をとらせました。

この歳三がいかに力を入れて剣術修行に励んだかを表す文面が日野市の郷土史に残されていましたので、下記に記します。

 

土方歳三が赤い面紐(めんひも)を後ろに長く垂らして、高畑不動尊の境内で野天稽古をしていた

 

なお、この時代赤い面紐をしている男性はいないといっていい状況です。

更に長く垂らしているというのは、土方歳三らしい洒落た剣術修行のファッションですね(^^♪0

土方歳三は剣術修行に熱を入れましたが、土方家の家業「石田散薬」の行商をさせられました。

行く先々の剣術道場で剣の稽古をつけてもらうのが密かな第一目的なので、当然商売には身が入りませんでした。

こうして土方歳三は剣術以外に真剣にやれるものがないことを自覚し、ますます剣術修行にのめり込むようになりました。

 

土方歳三、近藤勇と遂に出会う!上達する剣術の腕前

 

近藤勇とは土方歳三が佐藤彦五郎の屋敷で剣術修行に明け暮れていた、18、9歳のころに出会います。

しかし「盟友の出会い」とはなりませんでした。

何故なら近藤勇は天然理心流の四代目宗家が約束されていたからです。

それに比して土方歳三は剣術の才は多分にありますが、17歳と遅れた時期から稽古を始めたため、師範代として佐藤彦五郎邸にやってくる近藤勇の剣の腕に比べるまでもなく、教えてもらう立場にありました。

安政6年(1859)に天然理心流に正式入門し、試衛館に出入りするようになります。

この時24歳頃でした。

そして入門してから1年7か月で中極位目録を取得したとされています。

なお、天然理心流の標準取得期間は下記の通りです。

 

入門~切紙   1年6か月

目録  1年6か月

中極位目録  3年2か月

免許  3年9か月

指南免許 10年

ちなみに天然理心流のポリシーは「シャレになっても戦う」で、意味は「体がシャレコウベになるまで戦う」というものでした。

近藤勇の稽古着の背中には、シャレコウベが刺繍されています。

土方歳三は余程剣術修行が早く進んだようで、通常3年はかかる中極位目録を1年7か月で取得しています。

加えて天然理心流の敢然たるポリシーも元々の強い精神を更に強靭なものにしたことでしょう。

なお、土方歳三は免許を取得したという記録は無いが、石田散薬の行商の時に販売先の剣術道場で手合わせをしました。

この他流派との試合により実力を高めたとされています。

その証左として新選組副長として先頭に立って指揮を執り、刀での戦いでは傷一つ負わなかったことが挙げられ、相当の実力者であったことがうかがえます。

また、剣術師範のように新選組隊士の稽古をつけています。

そして色んな流派を研究し、新選組流ともいうべき新しい実戦に役立つ剣術も生み出しました。

土方歳三に剣術の才が多分にあることは間違いないでしょう!

 

土方歳三の剣術を彩る愛刀堀川国広

 

 

土方歳三が和泉守兼定と堀川国広の脇差を大小にして愛用していたことは有名です。

しかし堀川国広は大変高価な刀で、幕末でもとても高い値段で売買されていました。

そのため大名級の裕福な人でもなかなか購入し難い刀剣でした。

この為、土方歳三が所持していたとされる堀川国広は贋作であったという説が一般的です。

ちなみに『国広は二尺以下の刀は打たない』という俗説があります。

しかし重要文化財指定となった『脇差 銘 日州古屋住国広作 天正十四年八月日』があったり、他にも堀川国広作の脇差や短刀は実在しています。

土方歳三が所持していたとされる脇差は一尺九寸五分(約59cm)であるとされ、脇差としては長く大脇差といわれます。

土方歳三が函館戦争で戦死した後、堀川国広がどうなったのか記録に残されていません。

本当かどうかは分かりませんが

 

  • 和泉守兼定と共に日野の親族の下に戻ったが、太平洋戦争の最中に供出された
  • 太平洋戦争終結後、GHQによって持ち去られ、海に投棄された

 

という俗説がありま。

土方歳三資料館では、「日野に堀川国広という刀が戻ってきた記録は一切無い」と回答しています。

なお土方歳三が堀川国広を持っていたという記録は、近藤勇が佐藤彦五郎に池田屋事件について記した手紙に、「堀川国広 一尺九寸五分」と書いてあることだけなので、残念ながら根拠は薄いかなと(;_:)

まあ、ロマンですね!!

 

土方歳三の剣術修行を探る!近藤勇は剣の師匠?まとめ

 

いかがでしたでしょうか?

今回は土方歳三の剣術修行について記事をかきました。

小説等から来るイメージと違い、土方歳三と近藤勇の出会いはただの師範代と練習生でした!

そして凄い努力をして剣の腕を上げ、新選組副長になりました。

このように周囲に流されずに剣に生きた土方歳三の強い意志が、現代でも多くの人に支持されるのでしょうね!!

私もあやかりたいものです。

また、名刀堀川国広!

この土方歳三が堀川国広を所有していたかどうかは分かりませんが、ファンにとっては永遠のロマンとなることでしょう!

最後までご覧いただきありがとうございました。

 

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