武田信玄

武田信玄は城を持たないといわれているが、本当に持たなかったのか?

ヤスアキ
ヤスアキ
こんにちは!管理人のヤスアキです。甲斐の虎と呼ばれて諸国から恐れられた武田信玄は城を持たないといわれているけども、本当だったら凄いね。
みほ
みほ
戦争が頻繁にある戦国時代で城が無いなんて本当なの?
ヤスアキ
ヤスアキ
その辺にクローズアップして調べてみた。順を追って見てみよう。

 

武田信玄は城を持たないといわれているが、本当に持たなかったのか?本拠地甲斐の国ではどうだったのか?

 

ヤスアキ
ヤスアキ
武田信玄は城を持たないといわれていますが、本当にそうだったのでしょうか?この項では真偽を特定します。

 

武田家の本拠地甲斐の国には城があったのでしょうか?

答えは少ないですがありました。

信玄は甲斐の国自体を城と捉え、その中心に躑躅ケ崎館があると考えていました。

この躑躅ケ崎館は信玄の父信虎が日和から本拠を移して築かれたもので、勝頼が新府韮崎城を築くまで使われてつかわれていました。

 

武田家の政庁として使用され、当主もここに住み、武田家の中心として城下町は栄えました。

その城下町は小京都というべき、町割りがなされ、今も縦に走る整然と整備された四条の通路が残っています。

武田信玄は甲斐の国に城を持たないとは考えてはいません。

甲斐の国に新たな築城はしなかったけれども、古城のうち戦略上必要なものを改修築し、山城、砦、狼煙台として整備し、棒道、関所などと結びつけて極めて堅固な防御態勢を危惧いたのです。

言いかえれば甲斐一国を城塞化したということでしょう。

 

武田信玄は城を持たないといわれているが、本当に持たなかったのか?本拠地甲斐の国の城の状況

 

①要害城

1520年築城

甲府市上積翠寺町

躑躅ヶ崎館の背後には防衛のため要害城があります。

 

要害城は武田家の本拠躑躅ケ崎館の背後にあり、いざという時の防衛の要として築城されました。

戦国時代特有の城郭型の城で、大小の郭が帯状に複雑に連なり、極めて厳重な防御策が施されていました。

 

②湯村山城

甲府市湯村町

1523年築城

 

信玄の父信虎が古府中の躑躅ヶ崎へ館を移したころ、廃城になっていたものを防御用として改修したものとみられる。信玄時代は狼煙台として使われました。

 

③笹尾砦

北巨摩郡小渕沢町

1531年築城

 

甲信の国境地帯に八ヶ岳西麓を流れる釜無川左岸にあります。信虎が信濃勢の侵入を予想して築かせたものです。

 

④中山砦

北巨摩郡白洲町

 

釜無川西岸、約880メートルの山頂部にあり、下を信州往還が走っています。この辺りは武川衆の故地です。南北に伸びた尾根上に4つの小郭が構築されています。

 

⑤獅子吼城

北巨摩郡須玉町

 

講習守護職の武田信光の三男江草兵庫之介信康の築城といわれています。1532年、信虎が今井信元と江草一族が籠るこの城を攻撃、落城させています。

 

⑥白山城

韮崎市神山町

1100年代

 

甲斐源氏の実力者武田信義(武田家の祖)の要害城。

銭を伏せたような山頂に3つの郭があります。

南は登り口で、3段の帯郭が構築されています。

 

ヤスアキ
ヤスアキ
この通り甲斐の国の要害には城が設置されています。
みほ
みほ
何故信玄は城を持たないといわれているの?
ヤスアキ
ヤスアキ
それは人は城 人は石垣 人は堀 情けは味方 仇は敵なり」と信玄が周囲に諭していたという話があるんだ。
みほ
みほ
へー、じゃあ城はいらないと言っているのね!
ヤスアキ
ヤスアキ
どころがこの話は江戸時代の作り話であったとされているんだ。
みほ
みほ
そうなの!それじゃあやっぱり城は必要ということ?
ヤスアキ
ヤスアキ
その通り。実際甲斐の国には城が存在しているからね!

 

武田信玄は城を持たないといわれているが、本当に持たなかったのか?まとめ

 

いかがでしたでしょうか?

今回は武田信玄が城を本当に持たなかったのかどうかについて調べました。

その結果、しっかりと持っていたんですね!

なんでも調査が必要ということでしょうか!!

最後までお読みいただきありがとうございました。

 

 

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