武田信玄

川中島の戦いを分かりやすく解説!激突武田信玄対上杉謙信!!

ヤスアキ
ヤスアキ
こんにちは!管理人のヤスアキです。今回はあの有名な川中島の戦いを分かりやすく解説していこうと思う。
みほ
みほ
川中島の戦いは有名だよね!
ヤスアキ
ヤスアキ
うん。川中島の戦いは武田信玄と上杉謙信が信濃の国と越後の国の国境で天文22年(1553年)から永禄7年(1564年)まで、12年間で5回の合戦を戦ったんだ!
みほ
みほ
12年も!!
ヤスアキ
ヤスアキ
そう。お互い一歩も引かずに戦っていたら、12年もの時間がかかっていたんだ。
みほ
みほ
凄いわね。永禄4年(1581年)8月から9月に行われた4度目の合戦が一番激しかったと聞くわ。いったいどんな戦いだったのかしら!
ヤスアキ
ヤスアキ
どんな戦いだったか順を追って見ていこう!!

 

川中島の戦いを分かりやすく解説!上杉謙信決死の覚悟 妻女山に布陣

 

 

川中島の戦いを分かりやすく説明します。

まず動いたのは謙信です。

8月14日、越後の国に1万の留守部隊を残し、一六千の軍勢を率いて春日山を出発、進軍を開始します。

翌15日には善光寺に到着、兵站確保のため3千の兵を残し更に南下さ、16日川中島南部の妻女山に陣を構えました。

この謙信の動きは大胆不敵な行動といわれています。

何故なら上杉軍は敵中深くにある妻女山に陣取ったため、包囲される危険性があるからです。

更に近くにある高坂昌信が2000名の兵で守っている武田方の海津城を落とそうともせずに静観しました。常識的に考えれば、海津城を落として信玄を迎えた方が有利にきまってます。

 

この謙信の行動は常識的な戦略思考では説明のできるものではありません。

一般には以下の通りに解説されています。

「謙信は信玄と雌雄を決する覚悟だった。しかし尋常の構えでは信玄は出陣してこないかもしれない。そのため自らを死地に投ずることでスキを見せ、信玄を誘い出しで決着をつけようとした」というもので、背水の陣をしいての巧みな誘導作戦だったとするものです。

この説には頷けるところもあります。

過去3回の川中島の戦いで、信玄は謙信との決戦を避けたのです。謙信としては何としても今回で決着をつけたかったのでしょう。

一方、「謙信動く」の報を受け、8月18日に甲府を出発、信濃の諸将を呼び寄せて合流しながら遅速行軍し、6日後の24日に18000の兵で妻女山の西北8キロに位置する茶臼山に布陣しました。

こうして両軍の対陣が始まるのです。

 

川中島の戦いを分かりやすく解説!長引く対陣

 

ヤスアキ
ヤスアキ
ここら辺から少々内容が込み入ってきます。川中島の戦いを分かりやすく説明できるように頑張りますね!

こうして両軍は千曲川をはさんで対陣するようになりました。

謙信も信玄も動かず沈黙を守っていました。

謙信は断固決戦する決意を固めていましたが、信玄はできれば決戦は避けたいと思っていました。何故なら川中島一帯は既に自分の勢力圏に入っていたからです。そのため謙信に大人しく退いてもらうのを待っていたのです。

こうしてそれぞれ思惑が違ったまま24日から5日間に亘ってにらみあいの状況が続き29日に信玄は茶臼山から海津城に移りました。これは謙信に退路を開けて引き上げさせようとの意図があったといわれています。でも謙信は妻女山から動きませんでした。ここから再度対陣し、膠着状態に入ります。

 

川中島の戦いを分かりやすく解説!啄木鳥戦法

 

9月9日、長い退陣にしびれを切らした信玄は、諸将を集めて軍議を開きました。有力家臣の飯富虎昌と馬場信春が早急に上杉軍を攻撃するべきだと主張します。

その意見に信玄も同調し、戦法を考えた。そこで有名な信玄の軍師山本勘助に戦法を聞くのである。

山本勘助は兵力を二分させ、別動隊に上杉軍の背後を奇襲させて川中島へ追い落とし、あらかじめ布陣していた主力部隊で敗走してきた上杉軍を撃滅するという作戦を進言しました。これが啄木鳥戦法です。

信玄はこの提案に了承、啄木鳥戦法で謙信を攻めることになるのです。

9日深夜、遂に武田軍の妻女山奇襲部隊が移動を開始します。高坂昌信を先頭に有力諸将が率いる10隊12000人です。

午前零時頃海津城を発して南進、途中で右に向きを変えて上杉軍の右側面に迫りました。

一方信玄自らが率いる川中島迎撃隊は12隊・8000人。午前四時頃海津城を出発、八幡原に進出しました。

 

ヤスアキ
ヤスアキ
武田軍が遂に動き出しましたね!上杉軍はどうするのか?次項でこの川中島の戦いを分かりやすく説明しますね!

 

川中島の戦いを分かりやすく解説!上杉軍出撃

 

ヤスアキ
ヤスアキ
この武田軍の啄木鳥戦法ですが、謙信は海津城から立ち上る炊煙がいつもより多いことから信玄の作戦を見破ったといわれています。
みほ
みほ
この時代は余り米が食べられなかったんでしょ。
ヤスアキ
ヤスアキ
そうなんだ特に武田領甲斐、信濃は米の生産量が少なかったので、将兵は戦闘の前にだけ米を食べることができたんだ。それは上杉軍も同じ。上杉軍の米食は立って食べることから、お立ち飯といわれたんだよ。
みほ
みほ
それなら謙信ほどの名将は武田軍が出撃するのも察知できたでしょうね!

 

こうして海津城に建つのぼる普段より明らかに多い炊煙から、謙信は信玄の啄木鳥戦法を見破りました。

その後の謙信の動きは迅速です。兵卒に「越後に帰る」と触れ伝えて衰えかかった士気を取り戻し、武田軍を欺くために紙製の旌旗を押し立て篝火を燃やして、いかにも上杉軍が妻女山にいると思わせる工夫をしました。

10日の午前2時頃、上杉軍は13000の兵で武田軍に悟られないように妻女山を下りて川中島に押し出しました。武田軍の別動隊に備えて、1000名の部隊を妻女山の麓に備えました。

 

川中島の戦いを分かりやすく解説!八幡原の激闘

 

9月10日の早朝、川中島一帯は深い霧に包まれていました。その濃霧の中で武田軍主力は敗走してくる上杉軍を待ち受ける。作戦計画では別働隊は午前6時ごろに妻女山の上杉軍を攻撃を開始するはずでしたが、妻女山は静まり返っていました。計画が狂ったのかと信玄は不安に思ったことでしょう。

その不安が的中します。信玄は上杉軍の隠密行動を察知していませんでした。人馬の響きが耳に入ってきます。そして刻々と時間が経ち霧が晴れてくると、視界に飛び込んできたのは妻女山にいるはずの上杉軍だったのです。

信玄を含め全軍が驚きうろたえました。しかし信玄は直ぐに立ち直り、謙信の車懸かりの陣を見て、鶴翼の陣で対抗しました。鶴翼の陣とは鶴が翼を広げるように横に展開して敵を押し包む陣形です。上杉軍の車懸りの陣とは、車輪が回転するように全軍が円運動を行いつつ次々と新手を繰り出して攻撃する陣形です。

午前七時半ごろ、上杉軍の先鋒柿崎和泉守が武田軍に突撃、遂に川中島の戦いの火蓋が切って落とされたのである。

 

 

 

戦闘は当初は兵力に勝る上杉軍(八幡原には12000の兵が押し進んでいた)優位に推移した。中には飯富隊が柿崎隊を蹴散らし、300メートル程も追撃したという奮戦もあったが、大局的には武田軍が劣勢でした。

武田軍の中で最も奮戦したのは信玄の弟の武田信繁です。この信繁隊には上杉軍3部隊が殺到し、激しい攻撃を加えました。信繁は一歩も退かず激しい戦闘を繰り広げ、互角の戦闘を繰り広げました。

しかし兵卒の数は約3分の1です。信繁隊は一人また一人と倒れ、大苦戦に陥ります。信繁は討死にを覚悟します。そして信玄のもとへ遣いを送った。

「わが隊は全員討死にの覚悟。救援隊の派遣は無用にして、我らが戦っている間に勝利の工夫を願いたい」との決意を伝えました。つまり妻女山攻撃部隊の到着までの時間稼ぎのための人柱になるとのことです。

信繁は「敵の大将と見たら必ず刺し違えよ。俺に続け」と激を飛ばす。そして敵陣に突撃しました。敵の大軍の中勇戦力闘、何度も蹴散らしますが、衆寡敵せず討死にしてしまいます。

武田軍の戦死者が相次いぎました。信玄の軍師である山本勘助も敵中に突撃し、壮絶な最後を遂げています。

この時に信玄対謙信の一騎打ちの伝説が生まれました。

 

武田軍は追い詰められ、この時点で陣を守っている部隊は、飯富昌景隊、穴山信君隊、信玄直属部隊の3隊のみになっていました。

一方武田軍別動隊は主力部隊が激闘を始めた頃、ようやっと妻女山に突入した。しかし上杉軍は妻女山を下りてしまった後であり、陣地は蛻の殻でした。そして八幡原から干戈の響きや喊声が聞こえてきた。

別動隊は謙信に出し抜かれたことをこの時点で初めて気づくのです。そして急いで妻女山を駆け下り、川の渡り口を守る甘粕隊1000と激しい戦いをして蹴散らしたのち、ようやっと午前10時ないし11時頃に八幡原になだれを打って進撃してきました。

別動隊は上杉軍の側瀬を突き、猛烈な攻撃を加えました。この攻撃により戦況は逆転、上杉軍は川中島北方へと敗走しました。

この上杉軍の敗走により、川中島の戦いは終了いたしました。

 

川中島の戦いを分かりやすく解説!どちらが勝ったのか?

 

川中島の戦いを分かりやすく分析すると、一つのポイントとして死傷者の数があります。

まずは武田軍は上級武士の戦士が目立ちます。下記に列記しますね。

・武田信繁、山本勘助、諸角昌清、初鹿野忠次、油川彦三郎、安間弘家、三枝守直

次に両軍の戦死者、負傷者の数を比較してみましょう。

 

・武田軍

戦死者4630名

負傷者7500名

 

・上杉軍

戦死者3470名

負傷者9400名

この数字は正確かどうかは分かりませんが、史上稀にみる大激戦であったことは間違いありません。

ちなみにこの戦いで武田軍は多くの逸材を失いましたが、川中島一帯の支配を盤石なものとすることに成功、上杉家の勢力を排除したのです。

言いかえれば戦術面では上杉の勝ち、戦略面では武田の勝ちと認識できるのではないでしょうか!

 

最後にこの戦いを甲陽軍鑑は以下のごとく記しています。

「其合戦、卯の刻(午前6時前後)に始まりたるは大形(方)越後輝虎(謙信)のかち、巳の刻(午前10時前後)に始まりたるは甲州信玄公のかち」

 

川中島の戦いを分かりやすく解説!激突武田信玄対上杉謙信!!まとめ

 

いかがでしたでしょうか?

今回は川中島の戦いに焦点を当てて記事を作成いたしました。

武田信玄と上杉謙信。

凄まじい戦いでしたね!

最後までお読みいただきありがとうございました。

 

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