北条早雲

北条早雲はどんな人?誕生から最後まで簡単に解説!

管理人のヤスマサでござる。昨今巷では北条早雲殿について簡単に知りたいとの声が充満しているでござる
美紀姫
美紀姫
ヤスマサ!わらわも知りたい。でもあまり知識がない
お任せくだされ美紀姫様!誰にでも分かるように簡単に解説いたす
美紀姫
美紀姫
それは心強い。何でも今までの素浪人が下剋上で大名になったという定説は違うと耳にしたのですが・・・
左様にござる!近年の研究はさまざまなことが判明してきておりまする
美紀姫
美紀姫
難しそうじゃのう!わらわにもわかるじゃろうか?
大丈夫にござる!では最後までご覧あれ!

 

北条早雲を簡単に解説

 

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誕生と出自を簡単に解説!定説と違い貧乏浪人ではなかった

 

北条早雲殿は永享4年(1432年)に誕生したとされてきた。

しかしなんと、近年の研究では康正2年(1456年)に誕生したのではないかという説が

注目されているのじゃ!

そして更に今までは北条早雲殿は一介の貧乏浪人で戦国大名になった下剋上の典型的な人物と認識されていたが、実は足利幕府の政所執事を務めた名門伊勢氏の支流の出だということがわかったのじゃ!

 

美紀姫
美紀姫
うーん、小説とは違うようじゃ!北条早雲殿は元々は何をしていた方なのじゃ?簡単に申しなさい

 

美紀姫様、北条早雲殿は9代将軍足利義尚の申次衆をしていて、長享元年(1487年)から奉公衆となり、京都で幕府に出仕しておりました

 

その後今川家に内紛が起きた!

 

今川家当主の義忠が討死にしたため、後継者を巡る争いがあった。義忠の正妻が北条早雲の姉(あるいは妹)の北川殿である。そのため北川殿の息子の龍王丸を支持した

 

 

北条早雲殿は1487年に今川家の内乱に介入し、見事に龍王丸を当主の座につかせたのじゃ!

この功績で興国寺城を与えられたのでござる。

 

伊豆討ち入りを簡単に解説

 

1491年に伊豆国の堀越公方・足利政知の後継者争いが勃発したのじゃ。

正室の子である長男の茶々丸が、父の側室の円満院とその息子の潤童子を殺害して力づくで跡目を継ぐというものでござる。

 

これは国盗りのチャンスじゃ!

 

北条早雲殿は間髪入れずに出陣、伊豆に討ち入りして見事に平定するのでござる!

その時斬新な方法で伊豆国の武士と領民の心を引き寄せた。

 

<div class=”concept-box1″><p>

  • 「味方になれば本領を安堵し、ならなければ田畑を荒らして住居を破壊する」と伊豆の国中に高札を立てた
  • 敵の病人を看護した。
  • 兵の乱暴狼藉を禁止させた
  • 年貢を四公六民にした

</p></div>

 

これにより治安が乱れた伊豆は安定し、伊豆の武士や領民はとても喜び、北条早雲殿に味方したのじゃ!

味方がいなくなった茶々丸は自害したのでござる。

 

牛で小田原城を攻略?小田原攻めを簡単に解説

 

北条早雲殿の有名な小田原城の攻略をわかりやすいように簡単に説明しよう!

北条早雲殿は隣国の小田原城に本拠を構える大森藤頼殿に進物を贈るなどして、親密に接するようになった。

このことで大森殿は北条早雲殿を信頼し、警戒しなくなった。

 

美紀姫
美紀姫
北条早雲殿は簡単に言えば大森藤頼殿にプレゼントを送って安心させたのじゃな

 

その通りでござる。大森藤頼殿がすっかり北条早雲殿を信頼しきったのを見計らって、箱根山で鹿狩りをするから、大森藤頼殿の領内に勢子が入ってもいいかと頼み込み了承を取り付けたのでござる!

 

そして北条早雲殿は兵を勢子に化けさせて箱根山に潜ませた。

夜千頭の牛の角に松明を灯させ、北条早雲殿の兵と一緒に小田原城へ進軍する。

背後の箱根山からは勢子に化けて潜ませていた兵たちが小田原城に向って進軍。

喊声を上げて火を放つと、大軍が攻めてきたと勘違いした小田原城はパニック状態になり、大森藤頼殿は逃亡し、北条早雲殿は小田原城を手に入れたのじゃ!

 

晩年を簡単に解説

 

小田原城攻略後(1495年)、北条早雲殿は相模を統一するために、東相模を領有していた三浦義同と戦うことになる。

約20年相模一帯で戦いを繰り広げたのじゃ!

永正13年(1516年)、遂に三浦義同・義意父子の篭る三崎城を激戦の末攻略。

三浦父子は討ち死にしたのでござる。

遂に北条早雲殿は相模一国を手に入れたのじゃ!

 

北条早雲殿は家中をまとめるため、『早雲寺殿廿一箇条』という家法を定めた。

美紀姫
美紀姫
ヤスマサ殿!全21ヶ条からなり、分国法としての側面もあったと聞き及んでおる
美紀姫様!それだけではありませんぞ。主君への奉公の仕方、文武の鍛錬法、礼儀作法などの心得を北条早雲殿は簡単にわかりやすく書き留めたのでござる

 

また、領内では戦国大名が行った、もっとも古い検地とされる指出検地(土地面積や年貢量を自己申告させる検地を実施しておる。

そして北条早雲殿は死の前年から、虎の印判状を使用。

印判状が無ければ、郡代・代官の徴収命令は効果が無いとし、領民への過剰な搾取をできなくしたのじゃ!

領民が安心して暮らせる国造りを目指したといっても過言ではないじゃろう。

 

そんな北条早雲殿も永正16年(1519年)64歳で他界した。

 

北条早雲を簡単にまとめてみた

 

いかがでしたでござろうか!

北条早雲殿の誕生から最後までを簡単に解説いたした。

中々の器量人で今川家の家臣という身分から、伊豆と相模を領有して戦国大名になり、領民を大切にして善政を敷く。

典型的な名君じゃ!

いってみれば、北条5代の繁栄の礎を作ったのでござる。

凄い人物よのう~

 

最後までご覧いただき、ありがとうございました。

 

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