新選組

新選組の思想の変遷とは!行きついた先は何だったのか?

管理人のヤスマサでござる。今回は新選組の思想の変遷を記事にしてみた。
みほ
みほ
新選組の思想?なんか難しそうね!
心配ない。ミホ殿にも分かりやすいように書いてみた

みほ
みほ
それなら楽しみね!
うむ、3分程度で読めるゆえ、最後までおよみくだされ!!

新選組の思想の変遷とは!行きついた先は何だったのか?尽忠報国の破綻!!

 

 

新選組ないしは土方歳三の思想は「尽忠報国」から始まります。

では尽忠報国とは何なんでしょうか?

それは攘夷のために死ぬ覚悟ということです。

文久3年の初頭に近藤勇、土方歳三が浪士組に応募した時は、幕府も攘夷をするものだと思えたため、尽忠報国という思想が成立していました。

浪士組が清川八郎との不和により分離し、新選組になってからも、新選組の思想は尽忠報国でした。

ところが元治元年9月に、幕府は攘夷鎖国的な政策を全て放棄しました。

なんと幕府が条約締結国へ貿易の邪魔は一切しないと確約したのです!

つまり尽忠報国という思想が成立しづらくなったわけですが、その頃の新選組は元治元年6月5日の池田屋事件、7月の禁門の変、長州征伐の勅命があり、新選組は張り切っているじきでしたので気づきませんでした。。

ところが幕府は四ヶ国艦隊の圧力により、兵庫開港、大阪開市を決めました。

そして攘夷思想の強い朝廷と幕府は徳川慶喜の尽力により、安政条約勅許が成立しました。

この勅許は幕府の攘夷放棄を認めるといった妥協の産物としかいいようのないものでした。

つまりこの条約は朝廷も幕府も思想が攘夷ではなくなったことを意味します。

新選組の尽忠報国思想が、完全に崩壊いたしました。

 

新選組の思想の変遷とは!行きついた先は何だったのか?思想から士道へ!!

 

新選組の思想であった「尽忠報国」は完全に崩壊いたしました。

慶応元年に入った辺りから、近藤、土方は思想に変わり士道という名の規律に変遷して隊士を縛り付けました。

なお、有名な局中法度は新選組物語の作者の子母澤寛氏の創作です。

しかし局中法度に書いてあるような強烈な士道に関するこだわりは、近藤、土方の隊をまとめるスローガンとして存在しました。

その象徴たる出来事が山南敬助の脱走事件です。

山南の脱走事件は死罪に当たるほどのものではありません。

では何故切腹させられたのか?

それは土方歳三が士道に背くと判断したからです。

士道に背けば山南のような総長という大幹部でさえも、切腹させられるということを内外に見せつけたのです。

実際多くの隊士が士道に背いたとのことで切腹させられています。

このように土方が隊士を士道の名の元に強烈に縛り上げたのは、旗本に取り立てられることを目標としたためです。

つまり士分でもない隊士が多い新選組が旗本を目指す。

そのために強烈な規律により強力となった新選組の実力を知らしめる必要があったのです。

こうして旗本候補集団としての存在価値を示しました。

慶応元年以降、完全に尽忠報国思想から士道という規律に変遷し、この変遷で成功したのです。

 

新選組の思想の変遷とは!行きついた先は何だったのか?まとめ

 

いかがでしたでしょうか?

今回は新選組の思想が規律に変遷していった過程を調査し記事にまとめました。

土方歳三がメインになって士道への変遷を指揮しました。

その規律はすさまじく厳しく、何か落ち度があればすぐに切腹というものでした。

しかし出自が武士でぶしでない隊士を多く抱える新選組が旗本に取り立てられるには必要な事だったのかもしれませんね!

新選組の面白さを今後もご紹介していきたいと思います。

最後までご覧いただきありがとうございました。

 

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