新選組

新選組メンバー生き残りの二番隊組長永倉新八の戊辰戦争後!!

 

ヤスアキ
ヤスアキ
こんにちは!管理人のヤスアキです。今日は新選組二番隊組長の永倉新八が戊辰戦争後どう生きたかについて記事をまとめました。
みほ
みほ
新選組の組長で生き残ったのは永倉新八と斎藤一の2人だけだったんでしょう?
ヤスアキ
ヤスアキ
そうなんだ!だからこそ永倉新八の戊辰戦争後どう生きたかに関心を持つ方が多いと思ってピックアップしたんだよ!それでは皆さんお楽しみください(^^)/

 

新選組メンバー生き残りの二番隊組長永倉新八の戊辰戦争後!!    松前藩帰藩!!

 

ヤスアキ
ヤスアキ
新選組メンバー生き残りの永倉新八は戊辰戦争では、新選組から離れて自身で作った部隊で戦います。

 

みほ
みほ
新選組から分かれた後も新八は闘い続けたのね!

 

ヤスアキ
ヤスアキ
うん、関東、東北で戦っていたんだ。しかし会津藩が新政府軍に降伏すると戦いを諦め、江戸へ戻り出身の松前藩邸に逃げ込むんだ。その後も大変だったようだよ。

 

新八は出身の松前藩に帰藩しますが、剣術修行の

ために脱藩しています。

この当時は脱藩は重大な罪です。

それが許されたのは、新八の大叔母が藩主の

愛妾であったからと言われています。

そして藩主の計らいで国元の松前(北海道)

で生活するようになります。

江戸には幕末の復讐をしようと新八を狙う新

政府の要職に就いた人物が少なからずいました。

見つかったら命は無かったでしょう。

この時明治2年(31歳)、松前に行った新八は

杉村松柏(松前藩お抱えの医師)の養子となり、

その娘と結婚します。

明治8年(37歳)に養父杉村松柏が死去、家督を

相続し、「義衛」と改名しました。

松前での生活は安定していたようですね!

安定した生活を送りながらも新八の心は新選組に

あり、かつての同志である近藤勇、土方歳三を

偲ぶ気持ちがあり、明治9年東京都板橋区(近藤

が斬首された地)に近藤勇の墓所と土方歳三の

供養碑を建立しました、

 

 

余談ながら新八の墓はこの近藤勇墓所、土方歳三の

供養碑のすぐ傍にあります。

 

新選組メンバー生き残りの二番隊組長永倉新八の戊辰戦争後!!    剣術家としての生活!!

 

ヤスアキ
ヤスアキ
新八は明治を過ぎても剣術で暮らしていたんだ!

 

みほ
みほ
余程剣術が好きなのね!

 

ヤスアキ
ヤスアキ
それだけじゃないぞ!新八は優しい男。強い男は皆優しいみたいだね。僕もそうなりたいな!

 

 

永倉新八は明治15年(1982年)に開庁した

ばかりの樺戸集治監に看守達の剣術師範として

招かれました。

その指導は凄まじく厳しかったといわれています。

そして6年間勤めた後に上京しました。

剣術道場を牛込や浅草に作り、熱心に剣術の指導

を行いました。

そしてこの時期新八がもう一つ熱心に行っていた

ことがあります。

それは鳥羽伏見の戦い前夜に分かれた娘を見つけ

ることです。

母親は新選組時代に知り合った島原遊郭の亀屋

芸妓小常という女性です。

新八との間に娘をもうけます。

慶応3年7月に誕生したこの娘には「磯」という

名前が名づけられました。

ところが小常は産後の肥立ちが悪く、出産から

3か月後の12月11日に他界してしまいます。

しかし新選組は鳥羽伏見の戦いに参加するべく

出陣の準備を忙しくしていました。

このとき新八親子の出会いを助けた人物がいます。

娘の「磯」の乳母である岡田貞子という人物です。

岡田貞子は「磯」を連れて新選組の屯所に行き、

新八を訪れました。

岡田貞子の訪問を聞いた新八は、戦争の準備で

慌ただしい新選組の屯所から、二人を向かいの

八百屋へ連れていきます。

こうしてようやっと父娘は対面したのです。

しかし鳥羽伏見の戦いから始まる戊辰戦争に

より、親子は離れ離れになりました。

新八はこの「磯」を何年も探していたのです。

それには北海道より東京にいた方が何かと便利

であるため、引っ越した理由は「磯」探しのた

めかもしれませんね!

新八は「磯」に会うため何度も京都へ行き行方

を捜しました。

ようやっと再会したのは明治32年だったとい

われています。

「磯」は尾上小亀という女優になっていて再会

時は新八と号泣しながら抱きっていたとされて

います。

 

新選組メンバー生き残りの二番隊組長永倉新八の戊辰戦争後!!    小樽へ戻る!!

 

ヤスアキ
ヤスアキ
さすがの新八も老いには勝てないけど、まだまだ元気でやくざに一瞥をくれて追い払ったという逸話もあるんだ。

 

みほ
みほ
新選組の正義を証明するために活動していたんでしょ!

 

ヤスアキ
ヤスアキ
そうなんだ!新八の心は未だに新選組に対して、熱い気持ちを持っていたんだよ!

 

明治32年(61歳)の時、新八は北海道小樽

移ることにします。

小樽には息子夫婦と孫がいます。

安定した暮らしが送りたかったのかもしれませ

んね。

小樽での新八は札幌に頻繁に出かけて、北大の

剣道場で学生に剣術を教えました。

そして大正2年に小樽新聞が新八が生存している

ことを知り、インタビューにきました。

新八は快く応対、新選組のことを語り、後にその

インタビューの内容は「新選組顛末記」という

小説になりベストセラーになりました。

 

この新選組顛末記こそ新選組が賊軍であるという

イメージから武士中の武士というものに変えたと

言えるでしょう。

また新八は50代半ば頃に「浪士文久報国記事」

いう書籍を書いています。

この本は浅田次郎さんが「死ぬまでに一度読みた

いと思っていた」というほどの書籍です。

何故なら新選組の大幹部の新八が、芹沢鴨粛清、

池田屋事変等の真実を記載しているからです。

実はこの書籍は明治時代に紛失されていて、それ

以後存在は知られながらも行方知らずになって

いた幻の書籍といわれていた程の書籍です。

平成10年にようやっと発見されました。

 

発見された時は新選組の研究者、ファンを大喜び

させました。

管理人ももちろん読んでます。

この書籍こそ新八が残した新選組の正史でしょう。

そして新選組を後世に伝える最大の功績かもし

れませんね。

 

新選組メンバー生き残りの二番隊組長永倉新八の戊辰戦争後!!    まとめ

 

いかがでしたでしょうか?

今回は永倉新八の戊辰戦争後の生きざまに焦点を

当てて記事にしました。

やはり新選組の二番隊組長ほどの人物になると

管理人のような凡人とは違う生きざまを送る

ものなんですね!

最後までお読みいただきありがとうございました。

 

 

 

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