山中鹿ノ介

山中鹿之助の興味津々の逸話とは!狼之介との一騎打ちの真実等々!

管理人のヤスマサでござる!昨今山中鹿之助殿がどんな人なのか細かく知りたいから逸話を教えてほしいとの声が巷に充満しておる
みほ
みほ
三日月に向って我に七難八苦を与えたまえと祈っていた武将よね!私も知りたいわ
うむ!早速じゃが山中鹿之助殿は本当は山中鹿介殿じゃったということを知っておったか?
みほ
みほ
え、そうなの!初めて知った
うむ。知っているようで知らないことが多いのじゃ!今回はのう、このような意外な逸話を調べてきたんじゃ!
みほ
みほ
それは楽しみね!一騎打ちが凄い強いんでしょ?
鹿之助殿の強さは一騎打ちの強さだけじゃない。むしろ精神面の強さの方が評価されているんじゃないかな?拙者はそう思うぞ!不撓不屈の武将じゃからな
みほ
みほ
そうなんだ。とにかく知りたいわ。早く教えて
うむ!では最後までご覧あれ!

 

 

なお、山中鹿之助殿の名前は正式には山中鹿介であるが、山中鹿之助で浸透していることから、山中鹿之助と表記させていただきとうござる

 

 

山中鹿之助の興味津々の逸話!

 

なんと母子家庭で育った!

 

山中鹿之助殿の生家、山中家は尼子清定殿の弟である山中幸久を祖とする尼子家家老の家柄でござった

しかし父上の満幸殿が早くに亡くなられ、なんと山中家は母子家庭となったのじゃ!

生活は非常に貧しく、鹿之助殿は母なみ殿に育てられた。

山中家は服を買うお金に困るほど困窮していたため自ら畑で麻を育て、その麻で服を作り、鹿之助殿に着させたのでござる。

そして自分はぼろぼろな服を着るような貧窮した毎日であった。

想像以上に貧乏な生活じゃな!

なみ殿は他に貧しい家庭で育つ子供がいれば、服を与えたり、宿泊、食事をさせた優しい女性じゃった|

その時の子供達はこの優しさを忘れず、成長してから鹿之助殿の力になったという

 

三日月信仰は嘘だった!

 

鹿之助殿と言えば三日月に「我に七難八苦を与えたまえ」と祈っていたことで有名でござるが、それは嘘だったのだ!!!!

実際は16歳の時に「30日以内に武功を挙げさせてほしい」と三日月に向かって祈っていたのじゃ。

当時の太閤記等の本には「我に七難八苦を与えたまえ」等の記載は全くない・・・

ちょっと残念な気がするが、拙者には武功をあげることをいのる方が戦国武将らしくて共感を持つ!

そうじゃそうじゃ、武功の方じゃが祈りのせいか、主君・尼子義久が山名氏に攻め込み、伯耆の国尾高城を攻撃した時に、山名方の豪傑菊池音八という武将と一騎打ちを行い、この強敵を討ち取ったのじゃ。

お見事でござる。

三日月のご加護があったのかもしれんのう!!

 

棫木狼之介との一騎打ち!

 

山中鹿之助殿の一騎打ちでの強さは超有名じゃ!

代表的なのが棫木狼之介殿との一騎打ちじゃ。

元々は品川 将員(しながわ まさかず)といい、石見国の益田藤兼殿の家臣でござる。

鹿(山中鹿之助)を倒すのは狼(棫木 狼之介)だということで名を変えたとされる。

 

ところでこの両雄の一騎打ちは下記の3つの書物に記されているが、それぞれ記載内容が違うのじゃ~

 

 

  • 一つ目は雲陽軍実記
  • 二つ目は太閤記
  • 三つめは陰徳太平記

 

何という事か、それそれ書いてある内容が違う。

 

ちなみに「雲陽軍実記」は簡単に言えば尼子側の資料じゃ!

じゃから当然山中鹿之助殿をかっこよく書く!

 

「太閤記」は中立な立場で書いておるが、何せ太閤秀吉殿の伝記じゃからのう~

どこまで情報を持っていたんだろうか( ;∀;)

 

「陰徳太平記」は毛利側の資料で、鹿之助殿をかっこ悪く書く。

 

まあ、いずれにせよ山中鹿之助殿が勝ったことは間違いが無い。

そしてこの時毛利勢の月山富田城攻めの最中だったが、戦局に何の影響も無かったことも間違いが無い

一騎打ちはもう時代遅れになっていたのじゃろうな~

 

中立な立場の「太閤記」での記載を乗せておくでござる!

 

決闘の場所へ向かうため、幸盛(山中鹿之助)と将員(棫木狼之介)は川に入り進み[、両者の距離が間近に迫ると、将員は矢で幸盛を射ようとした。しかし、遠くからこれを見ていた尼子軍の将、岸左馬進が、1矢によって将員の弓の鳥打を射り折ったため、失敗に終わった。

弓を壊された将員は刀を抜き、幸盛と太刀による勝負を行う。太刀による戦いは幸盛の力量が勝り、将員は右手の斜め上部を切られ負傷する。将員は傷を負いながらも、力では幸盛に勝っていたため、幸盛を引き寄せ取っ組み合いの勝負へと持ち込んだ。

組討の勝負は、お互いに上下になって争っているうちに、幸盛が脇差で将員を突き刺し、2、3回えぐって将員に傷を負わせた。このとき、対する将員も、あおむけに体を反らせて太刀を払い、幸盛の向こう脛(むこうずね)を切り裂き、幸盛を負傷させた。

将員劣勢と見た毛利軍は「将員を討たすな、皆続け」と言って軍を進めたため、対する尼子軍も幸盛を助けるため川に入り進軍しようとした。しかし、時をおかずして幸盛が将員を討ち取り、その首を捕ってさし上げると、尼子軍がこれに気を得て「ドッ」と凱歌を挙げて引いたため、毛利軍も気を失って軍を引き上げた。

引用:Wikipedia

 

 

なんと幽閉先のトイレから逃げ出した!

 

尼子再興の戦を始めた山中鹿之助殿は、最初は連戦連勝であったが、吉川元春殿が率いる毛利の大軍に布部山(ふべやまの合戦:安来市)で敗北し、毛利勢に捕まってしまうのじゃ!

鹿之助殿は尾高城に幽閉されてしまう。

そこで赤痢を装い、脱出する計画をたてた。

「赤痢になった」と偽り、腹痛を訴えて厠へ何度も行くのじゃ。

番兵は厠までついていき監視。

しかし名将は執念が違う。

なんと鹿之助殿は宵から明け方まで一晩に180回も厠へ駆けこんだのじゃ!

さすがに番兵も集中力が鈍り油断する。

そして番兵の油断をついて鹿之助殿は、肥壷から汲み取り口に出て脱出したのじゃ!

当然全身糞まみれ!

目的達成のための凄まじい執念がうかがえる逸話でござる!

 

そして、京へ逃れていた勝久を擁し、天正元年(1573)、ふたたび挙兵したのじゃ。

鹿之助殿らしい不撓不屈の闘志じゃのう!

 

山中鹿之助の殺害を命じたのはあの有名武将だった!

 

1578年7月、鹿之助殿は力戦奮闘したが、毛利の大軍に上月城が包囲されてとうとう陥落してしまう。

主君尼子勝久殿は切腹、山中鹿之助殿は捕虜となった。

そして備中松山城に在陣中の毛利輝元殿の元へ向かう途中、阿井の渡しで斬られてしまう。

この斬殺命令を出したのは、小早川隆景殿だったのじゃ!

 

画像

小早川隆景殿

 

隆景殿は鹿之助殿が「約300の屈強の兵を率い、様々な国から依頼を受けて戦う、いわば傭兵集団の長として中国地方を中心に戦闘していた」という話を聞いた。

それにより、「幸盛(山中鹿之助)は武略が備わりその器量も無双の勇士であるが、表裏の侍で今日は敵、明日は味方となる弓箭の本意に背く武士である」といい、毛利輝元殿に斬るように強くいった。

毛利輝元殿はこの偉大な大叔父に逆らうはずもなく、鹿之助殿を斬ることに同意したのじゃ!

惜しいことよのう~

 

とても人格者だった!

 

山中鹿之助殿が人格者だったという逸話をご紹介いたす!

鹿之助殿が惨殺された時に二人の小姓がついておった。

小姓は鹿之助殿を川岸に葬ったのじゃ。

鹿之助殿が埋葬された塚に桃の枝が植えられた。

「もし天に情けがあるのならば、この枝を大木となしたまえ」というと、二人とも切腹したのでござる。

その二人は毛利の追っ手が鹿之助殿の塚の横に葬った。

関が原での大谷吉継と湯浅五助、そして藤堂高刑(高虎の甥)を思わせる、武士らしい話でござるな~

なお桃の枝じゃが、この枝はなんと大木になるまで成長したのじゃ。

そのうちどういうわけか「この木を削って飲めば、瘧おこりが治る」との評判がたった。

そしてたくさんの人がやってきて桃の木を削ってしまい、とうとう木は枯れてしまったのじゃ!

桃の木は残念じゃが、鹿之助殿の名を広める一因になったかもしれんのう!

 

後世の評価

 

山中鹿之助殿の後世の評価は、主家への忠義と悲劇の結末が大勢の人を惹きつけた。

そのため江戸時代から「名将言行録」(戦国武将達の逸話が書かれている歴史的価値のある書籍)等にも登場するようになったのでござる。

しかし偉人を扱った書籍にありがちな活躍が大げさに表現されていたり、何故か「鹿之助」と名前が間違って執筆されてしまっている。

鹿之助殿が筆頭であったという尼子十勇士も実在したという確証はない!

しかし幕末は思想家として有名な頼山陽に「山陰の麒麟児」と評される。

また勝海舟等の優れた人物に傑物と判断され、勇敢で忠義に厚い武将と名が広まった。

戦前はあの楠木正成殿とほぼ対等に扱われ、君愛国の教材にも使われたのでござる。

子孫はどうなった?

 

山中鹿之助殿の長男とされる山中幸元殿(鴻池新六)は父の死後、武士を辞めて商人になった。

そして摂津国川辺郡鴻池村(現・兵庫県伊丹市)に移住、酒造業を始めた。

酒造業で財をなし大坂に移住、両替商に転じた。

山中幸元殿(鴻池新六)は余程商才があると見え、大阪随一の豪商に発展したのでござる。

そして両替商が発展、現代でいう三和銀行となった!

 

山中鹿之助の逸話を簡単にまとめてみた

 

いかがでしたでござろうか!

今回は山中鹿之助殿の逸話をご紹介いたした。

鹿之助殿は幼少の頃から苦労していたんじゃのう!

それがあったから、あそこまで毛利に立ち向かえたのかもしれん。

またその強烈な忠誠心は後世に評価されておる。

幕末の偉人たちにも認められて面目躍如といったところだろう!

今後も我々の心に残るに違いない!

最後までご覧いただき、誠に感謝いたす。

 

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