西郷隆盛

西南戦争のきっかけとは?私学校の不平士族の不満の暴発か?

 

 

ヤスアキ
ヤスアキ
こんにちは!管理人のヤスアキです。今回は西郷隆盛が西南戦争を、なぜ戦ったのかについてクローズアップし記事をまとめました。
みほ
みほ
西郷さんと言えば明治維新の立役者ですよね!それがなぜ政府と戦ったの?
ヤスアキ
ヤスアキ
大切なことなので順を追って説明していくね!

 

西南戦争のきっかけとは?私学校の不平士族の不満の暴発か?鹿児島への下野

 

ヤスアキ
ヤスアキ
明治6年10月23日に西郷隆盛は征韓論争に敗れ、辞表を提出し鹿児島に帰国します。そして陸軍少将の桐野利秋と篠原国幹、近衛の村田新八を始めとする約600名も西郷さんと行動を共にします。西郷さんの下野は西郷さん個人の問題でとどまらなかったんだ。
みほ
みほ
これだけの人が西郷さんについていったら、政府も穏やかじゃない心境になるてしょうね。それにしても西郷さんの影響力は凄いものがあるのね!

 

鹿児島に戻った西郷隆盛は毎日のように好きな狩猟

に明け暮れ、ゆったりとした日々を送っていました。

その裏で翌年明治7年6月に私学校が設立されまし

た。

この私学校は篠原国幹が監督する銃隊学校、村田

新八が監督する砲隊学校からなっていました。

更に鹿児島市内に12の分校も作られました。

つまり数万の人員からなる私設軍隊であり、

治結社でもあったのです。

また県令の大山綱良は西郷の盟友で、私学校を全

面的に支援したため、県内の政治も私学校の影響

下に置かれたため、鹿児島は私学校の独立王国の

ような状況になってしまいました。

西郷下野の翌年には既に物騒な状況になってい

たのです。

 

西南戦争のきっかけとは?私学校の不平士族の不満の暴発か?政府との対立

 

ヤスアキ
ヤスアキ
明治9年頃には鹿児島は、政府の指示や方針に従わず、独立国のように振舞っていたんだ。その背景には私学校の生徒である強力な戦闘力を有する万余の士族達がいたんだよ。
みほ
みほ
このような状態では政府も安心できなかったんじゃないの?
ヤスアキ
ヤスアキ
そうなんだ。だけど大久保利通は鹿児島との対決を避け、懐柔しようとしていたんだ。しかし焼石に水で、関係は悪化の一途を辿るんだ。
みほ
みほ
このままいったら戦争しかないわね。
ヤスアキ
ヤスアキ
うん。順を追って説明していくね!

 

政府と鹿児島との関係が悪化し、明治9年には

鹿児島と政府の間は一触即発の状態に陥ってい

ました。

大久保利通がリーダーとして鹿児島対策を行って

いましたが、大久保がうまくいっていないのを

みて、腹心大警視川路利良は12月に鹿児島出身

の中原達の警察官や学生23名を鹿児島に潜入さ

せ、状況視察私学校党の離間工作を図りました。

それと同時に明治10年1月に鹿児島にある武器

弾薬を大阪に運び出すことにして、県令にも告

げず、夜密かに持ち出してしまいました。

これに激高した私学校の若手急進派は桐野、

篠原に無断で火薬庫を襲撃し、4棟ある火薬

庫のうち1棟を破壊し、小銃弾6万発を奪い

とったのです。

その夜のうちに篠原主要幹部が集まり対策を

練りました。

しかし火薬庫襲撃をとがめるのではなく、

この機に中原ら密偵を捕縛し、何をしに鹿

児島に来たのか自白させることにしました。

そして臨戦態勢を取り始めます。

私学校の生徒は更に過激になり1000人

以上の生徒が火薬庫を襲撃しました。

この襲撃は二月二日まで二か月間続きま

した。

こうして鹿児島と政府との緊張状態が増々

高まっていきました。

西南戦争のきっかけが西郷隆盛の意思とは

関係のないところで私学校生徒により起こっ

てしまいましたね。

 

西南戦争のきっかけとは?私学校の不平士族の不満の暴発か?西郷の挙兵

 

 

ヤスアキ
ヤスアキ
鹿児島と政府との緊張状態は沸騰するような状態になっています。政府の弾薬を奪うということは、政府と戦争する気があると捉えられても仕方がないでしょう。
みほ
みほ
それじゃもう戦争は避けられないのね。
ヤスアキ
ヤスアキ
そのことを順を追って説明するね

 

弾薬庫襲撃の一方、密偵を捕縛しようとして血眼

になって探し、二月三日に中原が捕縛され、その

後密偵のほとんどが捕縛されました。

そして激しい拷問をした結果、「西郷暗殺の計画」

をもらしました。

もっともこの計画が本当なのかどうかは分かりま

せん。

桐野、篠原等の私学校最高幹部にとって本当か

どうかは関係ないのです。

ただ戦争する口実が欲しかっただけです。

こうして鹿児島中が燃え上がってしまいました。

その頃西郷は大隅の小根占というところにい

て、この鹿児島全土の騒ぎは無縁の生活を

送っていました、

この西郷の元に西郷小兵衛、辺見十郎太がやって

きました。

そして桐野、篠原等の最高幹部達の会議の結果に

対しての決裁を仰ぎに来ました。

密偵捕縛事件のことを聞くと、「一(大久保利

通、利通の前の名前が一蔵であった)はなんち

ゅうこつをすっか」と怒ったように何度も繰り

返しました。

続いて私学校生徒の火薬庫襲撃を聞くと、

「ちょっしもた(しまった)」といった後、

「ないごて、弾薬などを追盗ってせえ」

(なぜ弾薬などを盗むのか)や「汝どま、弾薬

に何の用があっちゅうとか」と声を荒らげました。

上記の話は辺見らの記憶です。

この二つの大きな事件を西郷さんが知らなかった

のが分かりま

もしかしたら鹿児島が政府との対決必至の状態に

なっていることも完全には把握していなかった

のかもしれません。

とにかくこの騒ぎの中一人蚊帳の外にいて、知ら

なかったのは間違いありません。

そして私学校幹部全員が挙兵で一致していること

を聞き、西郷さんは何も異議を唱えることなく、

小根占を出ました。

2月5日に私学校講堂で拡大幹部会議が開かれ

ました。

会議では桐野、篠原等が挙兵を主張し、反対

意見を制し、出席者の意見をまとめあげました

それを受けて西郷さんはこう言いました。

「もう何も言うことはなか。おはんたちが

その気なら、おいの身体は差し上げもそ」

ついに西郷さんが挙兵に祭り上げられて

しまいました。

西南戦争のきっかけは西郷隆盛とは無縁のところで

私学校の意思によって始まったものであったのです。

 

西南戦争のきっかけとは?私学校の不平士族の不満の暴発か?まとめ

 

いかがでしたでしょうか?

今回は西南戦争のきっかけについて記事を

まとめました。

西郷隆盛が自ら望んでの挙兵ではなかっ

たのですね!

最後までお読みいただきありがとうございました。

 

 

COMMENT

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です