山県昌景

山県昌景がどんな人かを簡単にわかりやすく解説!誕生から最後まで

管理人のヤスマサでござる。昨今巷では山県昌景殿はどんな人かを簡単にわかりやすく説明してほしいとの声で充満しておる
美紀姫
美紀姫
山県昌景殿か。武田4名臣の筆頭の方じゃな!
左様!身長は140cm程しかなかったが、凄く強い武将でござる
美紀姫
美紀姫
当時の平均身長は160cmと聞いておる。余程強かったのじゃのう
それだけではありませんぞ。軍隊を率いての指揮官としての実力も超一流でござる。美紀姫はそのような武将のことを知りたくないですか?
美紀姫
美紀姫
無論知りたい。でもわらわは山県昌景殿のことをよく知らぬ。それでもわかるかのう

 

大丈夫でござる。山県昌景殿がどんな人かを簡単に解説いたす。では最後までご覧あれ!

 

山県昌景がどんな人かを簡単にわかりやすく解説

 

経歴

 

山県昌景殿は1529年、甲斐国で生まれた。

父は武田信虎殿の家臣・飯富道悦殿の子息の源四郎という人物と見られている。

 

飯富源四郎殿は1517年10月17日に、甲斐国西郡の国人の大井信達殿との戦で戦死しておるのじゃ!このこともあって、山県昌景殿の幼少期の事は情報が少ないのじゃろう

 

なお、山県昌景殿は元々は飯富姓だったが、後に山県姓になったのでござる。

ところで山県昌景殿についての主な資料となっているのは、甲陽軍鑑という書物でござる。

甲陽軍鑑は武田信玄殿を中心に、武田家及び家臣団の逸話や事跡の紹介、軍学等で構成されておる。また武田家の儀礼の記述が豊富あり、価値の高い記述も相応にある。

 

甲陽軍鑑によれば、山県昌景殿は最初は武田信玄殿の近習として勤め、その後使番となった。

そして武田信玄殿の伊奈攻め(信濃)が初陣で、神之峰城の攻城戦で一番乗りの功名を立てたとされる。

 

山県昌景殿は勇猛な武将で、天文21年(1552年)に信濃攻めの功績が認められ、騎馬150騎を任される侍大将に抜擢されたのじゃ

 

兄飯富虎昌殿は武田家中屈指の猛将であったが、兄に匹敵する武勇を発揮し、「源四郎の赴くところ敵なし」と評されたのでござる。

順風満帆に出世していったが、大きなトラブルが起きる。

兄の飯富虎昌殿が、主君武田信玄殿に謀反を企てたのじゃ!!

 

兄の飯富虎昌の謀反

 

永禄7年(1564年)7月に、武田信玄殿の嫡男義信殿は、父信玄殿の暗殺を計画していた。

何故かと言えば父子で外交方針が違っていたからである。

武田信玄殿は今川家の領国である駿河を攻める方針。

武田義信殿は今川家と同盟を維持し、今まで通り友好関係を保つ方針。

意見が決定的に分かれてしまったのじゃ!

そこで武田義信殿の傅役である飯富虎昌殿、側近の長坂源五郎(昌国)殿、曽根周防守殿らが信玄暗殺を企図していた

飯富虎昌殿は実弟の山県昌景殿に協力を要請したが、昌景殿は武田信玄殿への忠義から暗殺計画には加わらず報告したのじゃ。

兄を取るか、主君を取るかで迷ったと思うが、山県昌景殿は主君武田信玄殿を選んだのでござる。

そのことから暗殺計画は露呈し首謀者を捕縛、永禄8年(1565年)1月、兄の飯富虎昌殿は謀反の責任を取る形で切腹させれたのじゃ!

武田義信殿は幽閉され、その後自害した。

山県昌景殿の主君に対する忠誠心が評価され、飯富虎昌殿の赤備え部隊を引き継いだ。

また、断絶していた山県氏の名跡を与えられて、山県昌景と名を改めたのでござる。

 

山県昌景隊は部隊の軍装を赤一色に統一したのじゃ!そのため「赤備え」といわれ諸大名から恐れられた。そして赤備えは最強部隊の代名詞となったのじゃ
美紀姫
美紀姫
そして山県昌景殿亡きあと、井伊直政殿や真田信繁殿も赤備えを採用していた。余程強かったのじゃのう

 

武田信玄の西上作戦と山県昌景

 

元亀3年(1572年)10月、武田信玄信玄殿は「西上作戦」を開始した。

山県昌景殿は別働隊を率いて信濃から徳川家康殿の領国三河と遠江に攻め入って徳川軍を圧倒、武田信玄殿の本隊に合流したのじゃ。

同年12月22日には三方ヶ原の戦いが発生し徳川軍を蹴散らした。

山県昌景殿の戦振りは「さてもさても恐ろしき軍団かな」と徳川家康殿を震え上がらせる程の活躍をしたのじゃ

戦いは武田軍が大勝利したが、惜しいかな元亀4年(1573年)4月12日に武田信玄殿が信濃伊那郡駒場で他界してしまうのじゃ。

武田信玄殿は山県昌景殿、馬場信春殿に後継者の武田勝頼殿を補佐せよと遺言を残したため、勝頼殿に忠誠を尽くしたのである。

 

武田信玄の死後

 

武田信玄殿の後継者の勝頼殿は勇猛果敢な武将で、織田信長殿の領国東美濃、徳川家康殿の

領国遠江、三河に攻めこみ、父信玄殿以上に領地を拡大したのじゃ。

しかし山県昌景殿と武田勝頼殿との関係は、余り良くなかった。

武田勝頼殿の側近跡部勝資と長坂光堅とそりが合わなかったのが理由じゃ!

そして天正3年(1575年)5月に長篠の戦いが起きる。

山県昌景殿や馬場信春殿、内藤昌豊殿らの宿老は武田勝頼殿に長篠から撤退することを進言したのでござる。

しかし勝頼殿の側近の長坂光堅らが決戦を主張し、勝頼殿も宿老たちの意見を退ける形で側近に同意、戦いが開始されたのでござる。

山県昌景殿は左翼を任せられ、徳川勢と激闘を開始する。

昌景殿は敵の鉄砲隊に苦戦!

そして激闘の中、全身に17ヶ所も被弾してしまうのじゃ。

しかし、それだけ被弾しても落馬せず、采配を口に咥えたまま絶命したとされておる。

 

画像

長篠の戦いで、主君山県昌景の首を持ち帰ろうとする

山県家家臣志村又右衛門の図

 

山県昌景がどんな人かを簡単にわかりやすくまとめてみた

 

いかがでしたでござろうか!

山県昌景殿がどんな人かを簡単にわかりやすくまとめてみたのじゃが、武田家最強の武将でござるのう。

この記事のまとめは以下の通りじゃ!

 

今回のまとめ
  • 武田家屈指の猛将だった
  • 兄の飯富虎昌は信玄暗殺を企んだ。山県昌景は兄に味方せず信玄に暗殺計画を報告した
  • 三方ヶ原の戦いで徳川家康を恐れさすほどの勇猛ぶりを発揮した
  • 武田勝頼との関係は、余り良くなかった
  • 長篠の戦いで奮戦の末戦死

 

魅力的な武将なので、この記事を通して少しでも関心を持つ方が増えれば幸いにござる。

最後までお読みいただき、誠に感謝いたす。

 

 

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