歴史

第一次上田合戦~真田昌幸の見事な用兵をわかりやすく解説

管理人のヤスマサでござる。昨今巷では第一次上田合戦(神川合戦)について知りたいという声が充満しておる
美紀姫
美紀姫
真田昌幸殿と徳川氏の戦じゃな
左様!真田昌幸殿が寡兵にて徳川氏の大軍を、どうやって破ったのか知りたいとの要望があるのです
美紀姫
美紀姫
それはかなり詳しく説明しないと分からないのではないか?
もちろんでござる。だから拙者も真田方、徳川方の兵の動きが分かるように執筆いたした
美紀姫
美紀姫
それはわらわも興味あるのう!しかしわらわにも理解できるだろうか?
ご安心くだされ、わかりやすく説明しております。では最後までご覧あれ!
北条早雲
北条早雲

第一次上田合戦(神川合戦)~真田昌幸の見事な用兵

 

何故第一次上田合戦(神川合戦)が起こったか?

 

天正10年(1582年)3月、織田信長殿の甲州征伐により主家武田氏は滅亡しました。

武田家の領地であった甲斐、信濃、上野は織田家の家臣に与えられる。

ところが6月の本能寺の変で織田信長殿が横死してしまいました。

信長殿がいなくなったため、織田領である甲斐、信濃、上野は収める者ががいなくなり、空白状態となったのです。

その収める者がいない領地を得ようと越後の上杉景勝や相模の北条氏直、三河の徳川家康といった大勢力が侵攻して争うようになったのじゃ。ちなみにこの状態を天正壬午(じんご)の乱という。

美紀姫
美紀姫
これは小勢力の真田昌幸殿は大変なことですね!油断していたら滅ぼされてしまう
そのとおりでござる。小勢力の真田昌幸殿は生き残るため、織田氏、北条氏、徳川氏に主君を鞍替えしたのでござる

天正10年10月、徳川家康殿は豊臣秀吉殿との戦に専念したいため、後顧の憂いを断つため北条氏直殿と和睦をしました。

和睦条件

下記領土の交換

・徳川領 上野(真田領沼田も含まれる)

・北条領 甲斐、信濃佐久郡と諏訪郡

 

天正12年、家康殿と秀吉殿は尾張の小牧・長久手で合戦。

家康殿にとって北条氏との同盟は必要不可欠になる。

このことは真田昌幸殿にとって不都合なことになります!

何故なら北条氏との戦いになった時、徳川氏の援助が期待できなくなったからです。

 

天正13年(1585年)、家康殿と北条氏直殿とで決められていた、旧武田領の分割がいよいよ実行されることになったのでござる
美紀姫
美紀姫
真田氏の沼田領を北条氏に引き渡すことになっていたの~大国徳川からの要請じゃ。無下に断るわけにはいかぬ。真田昌幸殿はどんな断り方をしたのじゃ
徳川家康殿が真田昌幸殿に沼田領を北条氏へ引き渡せと伝えると、昌幸殿は沼田領は徳川氏から与えられた領地ではないときっぱりと拒否したのでござる
美紀姫
美紀姫
それは徳川家康殿の怒りを買わぬか?真田氏単独で徳川氏と言う大勢力に立ち向かったのか?
昌幸殿は家康殿と対立していた上杉氏に和を乞い、天正13年7月頃に傘下に入りもうした。これで上杉氏の援助を受けられる体制となります。誠にしたたかな武将でござるのう

家康殿はその事を知り激怒!

徳川の威信は小大名の真田家に離反されたことにより、大いに傷つけられたのです!

同年八月に真田討伐の軍を起こし、鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉らを将として、約7000の兵で上田城へ向かわせた。

一説には兵数は10000であったとされる。

 

真田軍の配置

 

徳川方は7000人の軍勢で押し寄せてきたが、真田方の軍勢は僅か1500人前後であったとされる。

真田昌幸殿はまだ未完成の上田城に拠り、長男の信幸殿は支城の戸石城に篭城、矢沢城には昌幸殿の従兄弟矢沢頼康が上杉の援兵と共に篭城した。

 

 

画像

(上田城古図)

 

なお、真田勢の配置は以下の通りである。

・上田城本丸 真田昌幸 兵500

・上田城横曲輪にも兵を配置

・神川 兵200

・砥石城 真田信之 兵800

・上田城東側  武装農兵3000 城下の街、山野に伏兵として配置

 

激突!真田対徳川

 

天正13年(1585年)8月2日、徳川軍が長瀬河原から、上田城東方の国分寺方面に進軍してきた。

真田昌幸殿は上田城下の町内のあちこちに柵を千鳥掛け(互い違い)に設置させ、城の東南を流れる神川の前に200人程の兵を置いた。

 

昌幸殿はこの兵たちに「敵が川を越えたら軽く戦って軽く退け」と命令していたのじゃ。この部隊は徳川軍を誘導するオトリとして編成された部隊だからでござる!

 

昌幸殿は500名の兵と共に本丸にいた。

城門は固く閉ざして櫓に上り、家臣の禰津長右衛門殿と碁を打っていたのじゃ!

甲冑もつけずに!!!

徳川勢が押し寄せてきた。

神川を渡り、真田勢のオトリ部隊に襲い掛かった!

オトリ部隊は応戦するも徳川勢の攻撃で敗走したというふうに装って、横曲輪に集結したのでござる。

徳川勢は千鳥掛けの柵に手間取るがぐんぐん進んでくる。

物見が昌幸殿に状況を報告しても、昌幸殿は碁を打ち続けて余裕の様子である。

しかし徳川勢は大した抵抗を受けぬまま城下に侵入しました。

この状態を真田勢の兵が少ないため抵抗ができないのだろうと判断した。そして鬨の声をあげ、勇躍して前進、二の丸門に進み猛攻撃を加えたのじゃ
美紀姫
美紀姫
昌幸殿に物見はこの一方的な戦況を報告しましたか?
もちろんでござる。昌幸殿は「時こそ、よし」と碁をそのままにして立ち上がったのじゃ

ここから凄まじい反撃が始まる。

城門上に隠した丸太を落とさせ、鉄砲や弓を撃ち激しく攻撃した。

徳川勢が押されるのを見て、昌幸殿自ら本丸に置いた500の兵と共に突撃。

横曲輪の兵は城外に進ませて町屋に火を放たせた。

強い風が吹いていたため、火は四方に飛び火して、凄まじい勢いとなり、徳川勢を怯ませる。

そしてあちこちに伏兵として潜ませていた武装農兵3000が鉄砲を撃ち、徳川勢に攻撃しました。

更に砥石城の真田真之殿が徳川勢に襲い掛かる。

昌幸殿と挟撃したのです!

徳川勢はこの攻撃に混乱し退却しようとしたが、設置していた千鳥掛けに引っかかって退路を失い、次々と討取られ、やがて総崩れになった。

そして真田勢は徳川勢を激しく追撃し、神川まで追い詰めた。

ところが真田勢は神川上流で堰を切っていたため、水量が増し流れも急だったため、徳川勢は溺れ死ぬ者もお多かったのじゃ!

 

参考までにこの戦いで敗走してきた将兵の様子を、大久保彦左衛門殿執筆の三河物語に、以下のように書いている。

・ことごとく腰がぬけはて

・ふるえて返事もしない

・下戸に酒を強いたるごとし

・あったら知行かな(こんな奴に知行をやるのはもったいない)

 

こうして真田は徳川相手に大勝利を収めたのでござる。そして真田の名を天下に轟かせたのじゃ!
美紀姫
美紀姫
見事な勝利じゃ!まさに神算鬼謀よのう~

 

丸子表の戦い

 

8月3日、徳川勢は真田領近くの真田氏に味方した丸子氏(後、真田氏に臣従)の篭る丸子城を攻撃した。

徳川方としては、小大名の真田氏に大敗したとあっては面目が立たないから、せめて丸古城は落としたいという気持ちで攻城したといわれる!

しかし丸子城は要害で城兵も激しく防戦したため落とせず、約20日も対陣をしたのじゃ!

なおこの戦いは「丸子表の戦い」と呼ばれている。

また、上杉勢の援軍との小競り合いや更なる増援の報に接し、家康殿は井伊直政殿(一部部隊は当初より参陣)、大須賀康高殿、松平康重殿を将として援軍5000を出兵した。

そして一時撤退を下令、徳川軍は28日に上田より兵を引いたのである。

大久保忠世等の諸将は小諸城にいて、真田勢と小競り合いを繰り返していた。

しかし11月に徳川譜代の重臣石川数正殿が豊臣家に出奔する事件があり、真田攻めどころではなくなったため完全に撤退したのである。

 

第一次上田合戦(神川合戦)をまとめてみた

 

いかがでしたでしたでしょうか!

第一次上田合戦について、ご説明いたしました。

いつの世も小勢力は辛いですね・

しかし小勢力の真田が大勢力の徳川を見事に打ち破った!

真田昌幸殿の徳川に屈せず敢然と戦いに挑む姿勢は、今の世にも通じるような話だと思います。

私も真田昌幸殿にあやかりたいものと思います!

最後までご覧いただき、誠に感謝いたします。

 

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