土方歳三は言わずとしてた新選組の副長です。
鬼の副長と言われる程恐れられていましたね。
何故あれほど鬼になれたのか?
何故最後まで戦い抜いたのか?
土方歳三の思想を探っていきたいと思います。
それではよろしくお願いいたします。
土方歳三の思想はどのようなものだったのか?
尽忠報国
文久3年(1863年)の浪士組結成当時の土方歳三の思想は尽忠報国です。
この思想は浪士組募集の際のスローガンでした。
この時は朝廷と幕府の関係は良好であったため、土方歳三の思想である尽忠報国も成立していました。
しかし元治元年(1864年)8月に外国船に砲撃していた長州藩がイギリス、フランス、アメリカ、オランダの四ヶ国艦隊に攻撃を受け、大損害を被りました。
このことは幕府に大きな衝撃を与え、横浜開港に応じてしまいました。
これは今までの攘夷政策を捨ててしまったというわけです。
そして幕府は元治元年(1864年)9月に攘夷鎖国的な政策を全て放棄し、開国しました。
これにより新選組の主君的存在の徳川幕府が攘夷から開国に変わってしまったことにより、尽忠報国思想は崩れ去ってしまったのです。
思想から士道による規律へ
土方歳三は今まで掲げていた「尽忠報国」という思想が崩れ去ってしまったため、新選組をまとめあげるスローガンを失ってしまいました。
そこで新たに作り出したものが士道でした。
この士道による規律で隊士が縛られるようになったのは、思想集団としての存在が危うくなってきた慶応元年(1865年)ごろです。
山南敬助は試衛館以来の同志で、新選組の大幹部です。
その山南敬助ですら切腹させ、士道に背くものは切腹させることを隊士に分からせたのです。
こうして新選組は士道という規律で、土方歳三の下一つにまとまったです。
このような状況で土方歳三は、思想的に動いて新時代を切り開くという目標は持ちえず、古い身分制度での出世を望むようになります。
具体的に言えば徳川幕府の旗本になることです。
こうして新選組は土方歳三の士道を強制した厳格な組織運営の下、高い戦闘力を発揮し、旗本に取り上げられました。
士道から節義へ
土方歳三の士道強制路線は成功し旗本になりましたが、江戸幕府は慶応3年(1867年)に滅亡、旗本では無くなってしまいました。
その後は新政府軍と戦い続けます。
どのような価値観が土方歳三の胸の中にあったのでしょうか?
それを紐解くカギが明治元年(1868年)9月に仙台藩重臣への発言の中で以下のような信条を語っています。
この土方歳三の心情を一言でいうと節義という言葉になります。
節義とは志を変えず、人としての正しい道を守るという事です。
このため土方歳三の戦いに勝ち負けは関係なく勝算は二の次で、戦うことだけが目的だったのです。
土方歳三の思想についてまとめてみた
いかがでしたでしょうか。
今回は土方歳三の思想についてまとめてみました。
最初は尽忠報国でしたが、次は士道、節義と変わっていきます。
結局思想は尽忠報国だけでした。
しかし士道も節義も土方歳三が有することで、後世の人に魅力を持たれる人物にさせたのは事実です。
土方歳三にとって欠かせない概念であったといえるでしょう。
[…] […]