土方歳三は新選組の副長として有名なため、名前くらいは大抵の人はご存じかと思います。
しかし土方歳三が何した人かをご存じの方は、大分少なくなるかと思います。
そこで今回は具体的に何した人なのかを、簡単にわかりやすく解説していこうと思います。
5分程で読めますので、是非最後までお付き合いくだされば光栄です。
土方歳三は何した人なのか?
浪士組に参加した
土方歳三は天保6年(1835年)武蔵国多摩郡石田村(現在の東京都日野市)で農業を営む土方家の10人兄弟の末子として生まれました。
土方家は近所からお大尽と呼ばれる程の裕福でした。
幼少期は非常にやんちゃで「バラガキ」と周辺から言われるほど、悪戯ばかりしていました。
ありあまるパワーがあったんでしょうね(笑)
その後奉公に出たり、家業の石田山薬の行商をしたりと割と苦労していたようです。
文久3年2月(1863年)第14代将軍徳川家茂の警護を目的に結成された「浪士組」に参加、上洛しました。
新選組副長として組織を仕切った
文久3年(1863年)に、壬生浪士組から8月18日の政変での功績が認められて、新選組が組織されます。
近藤勇と芹沢鴨が局長に就任しました。
ところが当然芹沢鴨も配下を率いていたので、近藤派と新選組の権力を二分していたのです。
そこで土方歳三は新選組を近藤派だけで握りたいと思い、芹沢派を暗殺しました。
土方歳三は組織造りの天才でした。
近藤勇は新選組の顔、つまり会津藩や幕府等の関係団体との折衝、副長である自分は新選組の隊務を仕切り、各組長に指示を伝達したので、素早い行動がとれたのです。
結果的に新選組の実務は、土方歳三が一手に握りました。
また、監察(情報収集)や会計方も設け、極めて合理的な組織を作り上げました。
当時新選組は京都市中の治安維持業務にあたっていましたが、この時期京都は浪人等が暴れまわり、治安が非常に悪く、日夜斬りあいが起こっていました。
土方歳三は「局中法度」という厳しい新選組の掟を作り、敵との斬りあいで、ちょっとでも怯むようなところを見せた隊士は容赦なく切腹させたのです。
新選組から脱走した隊士も捕まえて切腹させます。
そのため切腹させれた隊士はかなりいたため、「鬼の副長」と恐れられました。
この掟により隊士は必死で働いたため、新選組は最強の剣客集団になりました。
幕府の為に戦う
1867年6月、新選組の功績が大いに評価され、近藤勇、土方歳三達は幕臣に取り立てられました。
しかし10月に第15代将軍徳川慶喜は大政奉還をしましたが、官軍(薩摩藩と長州藩)と戦争になってしまいました(鳥羽伏見の戦い)。
当時近藤勇は狙撃されて負傷していたため、土方歳三が新選組を率いて戦いましたが大敗、江戸へ敗走します。
しかし江戸に戻った土方歳三は、1868年3月6日に行われた「甲州勝沼の戦い」で大敗、4月3日には、なんと流山で近藤勇が投降し、4月25日に板橋刑場で斬首されてしまうのです。
しかし土方歳三はめげずに関東、東北各地を転戦、会津藩や仙台藩といった官軍の抵抗勢力が降伏してしまったため蝦夷へ向かいました。
蝦夷共和国
慶応4年(1868年)10月20日に土方歳三は蝦夷に渡りました。
そして松前城を攻略し、榎本武揚と共に「蝦夷共和国」を作って陸軍奉行並(実質的には陸軍ナンバー2)に就任、新政府に対抗しました。
しかし新政府軍の大軍の前に、蝦夷共和国軍は敗戦に次ぐ敗戦。
土方歳三は「二股口の戦い」で数度勝ちますが、1869年5月11日に一本木関門で敵の銃弾を受け戦死しました。
35歳の人生でした。
土方歳三は何した人なのかをまとめてみた!
いかがでしたでしょうか。
今回土方歳三は何した人なのかをまとめてみました。
・裕福な農民に生まれたが、武士を目指した
・浪士組に参加し上洛する
・近藤勇、沖田総司と共に新選組を結成する
・鳥羽伏見の戦いを指揮する
・関東、東北で官軍と戦う
・蝦夷地で激しく戦うも、一本木で戦死した
最後までお読みいただきありがとうございました。

