武田信玄

武田信玄の負け戦!上田原の戦いと砥石崩れを解説!何故負けたのか?

管理人のヤスマサでござる。昨今巷では武田信玄殿の負け戦を知りたいという声で充満しておる
美紀姫
美紀姫
あの戦上手で有名な武田信玄殿の負け戦!わらわも知りたい
美紀姫様!武田信玄殿は村上義清殿に2回の負け戦があります。その一つが上田原の戦い。もう一つが砥石城の戦いでござる
美紀姫
美紀姫
なんと、二回もか。それは興味を持つの~
ならば拙者が教えて進ぜます
美紀姫
美紀姫
しかしわらわにも分かるかどうか不安じゃ
ご心配なく。では最後までご覧あれ!!

 

武田信玄の負け戦!上田原の戦いと砥石崩れを解説

 

武田信玄の信濃侵攻をわかりやすく

 

武田信玄殿は父の武田信虎殿を追い出して当主となりもうした。

隣接する諏訪家は武田家と村上家との間に同盟関係があったのじゃが、関東管領上杉憲政に攻められた際に同盟しておる。

この同盟が盟約違反になるとして、武田信玄殿は諏訪氏を攻撃するのじゃ!

天文11年(1542年)に武田信玄殿は出陣!

諏訪氏の居城「上原城」を落とし「桑原城」を包囲したのでござる。

そして当主諏訪頼重殿を和睦と偽っておびき出し、自害させたのじゃ。

後継者には諏訪頼重殿の嫡男虎王殿を擁立し、諏訪を平定したのでござる。

上原城には武田信玄殿が最も信頼している板垣信方殿が城代として配置され、諏訪郡を領国化したのじゃ。

次に上伊那郡から佐久郡に兵を進めたのじゃ。

天文16年(1547)には武田信玄殿は激しい戦いの末、佐久郡で最後まで抵抗した志賀城主の笠原清繁殿を討取り、志賀城を落としたのでござる。

こうして佐久郡が武田家の支配下に置かれもうした。

このことは佐久郡と隣接する小県郡を領有している村上義清殿と勢力がぶつかり、一戦は避けられない状態になったのでござる。

 

村上義清とはどんな人?

 

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村上義清殿は猛将として知られておった。

村上氏は清和源氏の流れを汲む名族で、鎌倉期には幕府の御家人じゃったとされる。

室町期に居城を植科郡の葛尾城に移した。

村上氏の領土は植科郡、高井郡、水内郡、更級郡に及んだ北信濃最大の勢力であったのでござる。

村上義清殿の代では小県郡にも勢力を広げ、武田信玄殿の信濃制覇には最大の敵であった。

長槍の達人とされ、上杉軍に参加した村上義清殿は、武田信玄殿の弟の武田信繫殿を討取ったといわれておる。

 

上田原の戦い

 

天文17年2月1日(1548年3月10日)、武田信玄殿は5000の軍勢を率いて甲府を出発、途中諏訪衆、郡内衆と合流して大門峠を越えて小県郡南部に進んだ。

兵は約7000余りと伝えられる。

一方、村上義清殿も居城の葛尾城を出発、上田平に進み、産川(千曲川支流)を挟んで武田方と向き合った。

村上方の兵数は武田方の兵数と同じ7000余りかやや少ないものとされている。

合戦は2月14日に始まったのじゃ。

武田信玄殿は板垣信方殿を先鋒にして攻撃を開始した

板垣信方殿は村上勢を蹴散らし、第一陣を突破。

更に突入し、敵兵250を討取る大戦果を挙げたのじゃ!

だが板垣信方殿はどうしたわけか味方から離れて備えの外に出て首実検を始めた!!

そこに体制を整えた村上勢に攻撃され、首を取られてしまったのじゃ!

板垣信方殿が討取られたことにより戦陣は崩れ、村上勢は勢いづき、激しい攻撃をしてきたため、武田軍は崩れかかり、本陣にまで攻められたのじゃ。

武田軍旗本は崩れたが、脇備えの内藤昌豊殿と馬場信春殿が横槍を入れて奮闘し、なんとか村上軍の攻撃をしのいだのでござる。

しかし右腕と頼む板垣信方殿、重臣の甘利虎泰殿が討取られるという大損害を被った。

一方村上軍も損害が大きく、戦闘を続けるのは難しい状態じゃった!

武田信玄殿は懸命に態勢を立て直し、20日前後も戦場に留まったのじゃ。

これは退却した場合、村上方に追撃されることを警戒していたのではないかと推測されている。

 

この戦いは村上軍もかなり消耗したが、武田軍は貴重な重臣が討死にしていることから、武田信玄殿の負け戦と判断されている。

 

砥石崩れ

 

 

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上田原の戦いで敗れた武田信玄殿は、村上義清殿に逆襲、砥石城を攻撃した。

砥石城は小さい城だが、難所ばかりで攻撃できる所は、ようやっと登攀可能な城の南側の一部しかないという攻めるのに難しい城郭であった。

この時の両軍の兵力は武田軍が7000人、城兵は500名と大差があった。

しかし城兵の半数は武田信玄殿の佐久攻めで過酷な目にあわされた志賀城の生残りであり、復讐心に燃えていたのじゃ。

天文17年(1548年)9月9日、武田軍の足軽大将・横田高松の部隊が登攀可能な崖を登り攻撃を開始したのじゃ。

 

美紀姫
美紀姫
砥石城は小さいながらも難攻不落の名城じゃな!さぞ武田軍は城攻めに苦労したのであろう

 

仰せの通りでござる。城兵は高所から崖を登ってくる武田兵に対して石を落としたり、煮え湯を浴びせたのでござる

 

この城兵の激しい抵抗により戦況は好転せず、武田信玄殿は9月30日に城攻めを断念、10月1日に甲府に撤退しようとした。

しかし村上義清殿が2000人を率いて葛尾城から来援したのじゃ。

武田軍は砥石城の城兵と村上軍本隊に挟み撃ちされてしまった。

 

美紀姫
美紀姫
挟み撃ちとはきつい!武田信玄殿は退却すると決めていたのではないのか?
左様でございまする。武田信玄殿は退却の準備を始めたところに村上義清殿の援軍が到着したのでござる。不利な状況となったため撤退を開始したのでござる
美紀姫
美紀姫
しかし退却戦は難しいのだろう?
左様。村上義清殿は激しく追撃し、武田軍は大損害を被るのです

 

この追撃戦は村上軍有利の一方的なものになり、武田軍は横田高松殿等の名のある将が討死に、1000人近い死傷者を出したとされておる。

武田信玄殿の数少ない負け戦で、砥石崩れと言われる。

 

武田信玄は戦に弱いのか?

 

武田信玄殿の負け戦は村上義清殿との上田原の戦いと砥石崩れの2回、そしてなんと同じ村上義清殿との葛尾城での戦いで3度目の敗北を喫しもうした。

しかしトータルでは72戦49勝3敗20分でござる。

これは驚異的な戦績じゃ。

また、武田信玄殿は毘沙門天の化身と呼ばれた上杉謙信殿と戦で互角、あるいはそれ以上に戦い、信濃を制覇した。

また、織田信長殿も武田信玄殿の戦での強さを恐れて戦争しないように気を遣い続けたのでござる。

武田信玄殿には3度の負け戦があるが、凄まじい勝率で戦い続けた名勝で、戦国最強と呼ぶにふさわしい武将じゃろう!

 

武田信玄の負け戦!上田原の戦いと砥石崩れをまとめてみた!

 

いかがでしたでござろうか?

武田信玄殿の二つの負け戦について記した。

村上義清殿との戦いでの負け戦である上田原の戦いと砥石崩れの2つの戦いは、武田信玄殿にとって数少ない負け戦で、優れた家臣と大勢の兵卒を失った。

しかし武田信玄殿はその負け戦を挽回して信濃を領国とし、村上義清殿を越後に追いやるのである。

村上義清殿を追いやった後は長尾景虎、後の上杉謙信殿との争いになる。

この二人の戦いに関しては、後日詳しく書きますので、お待ちいただきとうござる。

最後までお読みいただき、誠に感謝いたす。

 

 

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