武田信玄は城を持たないといわれているが、本当に持たなかったのか?本拠地甲斐の国ではどうだったのか?
武田家の本拠地甲斐の国には城があったのでしょうか?
答えは少ないですがありました。
信玄は甲斐の国自体を城と捉え、その中心に躑躅ケ崎館があると考えていました。
この躑躅ケ崎館は信玄の父信虎が日和から本拠を移して築かれたもので、勝頼が新府韮崎城を築くまで使われてつかわれていました。
室町情景/守護大名屋敷シリーズ②
武田氏居館、躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)主郭部分の制作。信虎が館を築いて500年目を迎える。戦国期に活躍した武田信玄の栄華と生活感を意識したジオラマ。#模型 #躑躅ヶ崎館 #武田氏 #武田信玄 #室町時代 #戦国時代 #甲府 #山梨 #歴史 pic.twitter.com/e6APLIIATY
— ARTBOX45°=宗秀斎(sousyuusai) (@sousyuusai_ar) August 18, 2019
武田家の政庁として使用され、当主もここに住み、武田家の中心として城下町は栄えました。
その城下町は小京都というべき、町割りがなされ、今も縦に走る整然と整備された四条の通路が残っています。
武田信玄は甲斐の国に城を持たないとは考えてはいません。
甲斐の国に新たな築城はしなかったけれども、古城のうち戦略上必要なものを改修築し、山城、砦、狼煙台として整備し、棒道、関所などと結びつけて極めて堅固な防御態勢を危惧いたのです。
言いかえれば甲斐一国を城塞化したということでしょう。
武田信玄は城を持たないといわれているが、本当に持たなかったのか?本拠地甲斐の国の城の状況
①要害城
1520年築城
甲府市上積翠寺町
躑躅ヶ崎館の背後には防衛のため要害城があります。
馬山東城・馬山西城。東城の主郭には米山寺が建つ。見学の許可をお願いしたら住職の奥様にペットボトルのお茶まで頂き恐縮(^^) 東城は居館、西城はその要害城で、国峯城の小幡一族の持ち城と伝わる。両方とも城址碑がある。 pic.twitter.com/e0Zjpp1Ar3
— らんまる攻城戦記@城郭探訪家 (@galm2fox2) May 5, 2019
要害城は武田家の本拠躑躅ケ崎館の背後にあり、いざという時の防衛の要として築城されました。
戦国時代特有の城郭型の城で、大小の郭が帯状に複雑に連なり、極めて厳重な防御策が施されていました。
②湯村山城
甲府市湯村町
1523年築城
★湯村山城(山梨県甲府市)
武田氏居館である躑躅ヶ崎館から南西2㎞ほどに位置する山城である。「高白斎記」の大永3年4月24日に「湯ノ島ノ山城御普請初」とあるのがこの城を指すと見られる。 pic.twitter.com/yeSVaVgmYP— ウモ【埋もれた古城】 (@umoretakojo) September 27, 2015
信玄の父信虎が古府中の躑躅ヶ崎へ館を移したころ、廃城になっていたものを防御用として改修したものとみられる。信玄時代は狼煙台として使われました。
③笹尾砦
北巨摩郡小渕沢町
1531年築城
笹尾塁(山梨県北杜市)
別名は笹尾砦。武田信虎と諏訪氏の攻防の中で武田方が籠った。小規模な城ながらも遺構が綺麗に残る。城からの眺望も素晴らしく、狼煙台として使われ続けた可能性もある。①三日月状の堀 ②土塁 ③先端の土塁と眺望 ④案内板 pic.twitter.com/7QTNZ4rkyc— 橘 康長 (@sengokuage2015) May 29, 2017
甲信の国境地帯に八ヶ岳西麓を流れる釜無川左岸にあります。信虎が信濃勢の侵入を予想して築かせたものです。
④中山砦
北巨摩郡白洲町
今日はフォロワーさんに誘ってもらい山梨県の北杜市にある中山砦へ行って来ました。遺構までの道のりは傾斜が厳しく大変でしたが。遺構もしっかり残っており楽しかったです。 pic.twitter.com/9NUFQeevBR
— へのへの九十石 (@soutenkouro3m) June 17, 2018
釜無川西岸、約880メートルの山頂部にあり、下を信州往還が走っています。この辺りは武川衆の故地です。南北に伸びた尾根上に4つの小郭が構築されています。
⑤獅子吼城
北巨摩郡須玉町
獅子吼城 山梨県北杜市
以前の入り口は本丸迄、10分足らずで現在は通行禁止で麓の神社から30分位かなぁ? pic.twitter.com/nP4nNvOQvM— 樋口山城守与六 (@yamashiro2017) June 17, 2018
講習守護職の武田信光の三男江草兵庫之介信康の築城といわれています。1532年、信虎が今井信元と江草一族が籠るこの城を攻撃、落城させています。
⑥白山城
韮崎市神山町
1100年代
山梨県韮崎市にある白山城(はくさんじょう)は国指定史跡。
①馬出南側の堀切
②馬出東側の堀から掘り込め式枡形虎口
③馬出北側の堀切
④馬出西側の堀
— 清之介 冒険可 (@nankuruseikun) May 22, 2019
甲斐源氏の実力者武田信義(武田家の祖)の要害城。
銭を伏せたような山頂に3つの郭があります。
南は登り口で、3段の帯郭が構築されています。
武田信玄は城を持たないといわれているが、本当に持たなかったのか?まとめ
いかがでしたでしょうか?
今回は武田信玄が城を本当に持たなかったのかどうかについて調べました。
その結果、しっかりと持っていたんですね!
なんでも調査が必要ということでしょうか!!
最後までお読みいただきありがとうございました。