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長篠の戦いをわかりやすく簡単に解説!!信玄死す
天正元年(1573年)4月12日、戦国最強と謳われた武田信玄が52歳で病没しました。しかし信玄が育てた無敵の騎馬隊を中核とした武田軍団は無傷のまま残っています。
ちなみに騎馬隊には諸説ある。主なものは次の通り。
・騎馬隊という組織化された軍団は無かった。
・騎馬隊は武田軍の中で家督を相続できない次男や三男で軍団が構成されており、少なくとも1000名はいた。
管理人は騎馬隊は確かに軍団が構成され、合戦で大きな活躍をしていたんだろうと思っています。
まあ信長はこの最強武田軍団に頭を悩ませていたでしょう。
それもそのはず信玄の息子勝頼は中々の猛将で、美濃の明智城、信玄ですら落とせなかった東遠江最大の要衝高天神城、三河の足助城を次々と攻め落としていきました。
天正3年(1575年)4月21日、遂に勝頼は長篠城を包囲しました。長篠城が取られれば武田軍は自由に三河に侵入でき、家康は滅亡してしまうでしょう。
そのため家康は信長に救援を求めました。
家康は勝頼に降伏しようと悩んでいたとの一説があります。とにかく家康はそこまで追い詰められていました。
長篠の戦いをわかりやすく簡単に解説!!両軍激突
武田軍が長篠城を包囲のことで家康から救援を求められると、信長は5月13日に出陣、3万の大軍を率いて設楽ケ原に布陣しました。そこで武田騎馬隊の攻撃を恐れ、馬防柵を設置させます。
長篠の戦い古戦場跡と馬防柵 pic.twitter.com/klow1ybMwx
— Nyal (@syanoshin) September 25, 2019
馬防柵
愛知県新城市竹広 大宮清水1−9にある
長篠の戦いで、武田騎馬隊を迎え撃つ為に
築かれた柵が復元されていますpic.twitter.com/oGD2ffMjhK— 浜松さやか (@hamamatsusayaka) September 25, 2019
一方勝頼は決戦体制をとります。
織田軍との決戦に慎重論が重臣からでたとの説がありますが、真偽のほどは分かっていません。この説が出てくるのも当然です。織田徳川連合軍は約35000、武田軍は15000しかいません。軍隊の数に差がありすぎます。勝頼は自身の能力と武田軍の強さを過信し、決戦に走ってしまったという論旨です。
また別の説として、信長の策で佐久間信盛を武田に裏切ると武田方に信じさせ、いざ合戦の時は信長を裏切り織田軍を攻めるとの約定を交わした。それを信じた勝頼が決戦に走ってしまったとするものです。この説も根拠はありません。
勝頼が無謀な戦いに走ってしまったのはどういった理由だったのか?
永遠の謎かもしれませんね!!
長篠の戦いをわかりやすく簡単に解説!!最強騎馬軍団壊滅
5月21日午前6時、両軍は連子川を挟んで対峙しました。
武田軍は高所に陣取っており、最強の騎馬隊で坂を一気にかけおり、織田軍を蹴散らす作戦です。
一方織田軍・徳川軍は互い違いに二重の馬防柵を並べ、3000丁の鉄砲隊を馬防柵の後ろに配置し、1000丁ずつ間断なく撃つように命じました。有名な三段撃ちですね!
合戦が開始されました。
武田騎馬隊が織田・徳川連合軍に襲い掛かります。しかし馬防柵に前進を阻まれ、動きが止まったところを鉄砲で撃たれました。
【長篠の戦い】1575年,三河国長篠を舞台に行われた徳川家康・織田信長連合軍vs武田勝頼の戦い。この戦いにおいて武田軍の2倍近い兵力を有していた徳川・織田連合軍は多くの鉄砲を活用し,当時最強と言われた武田軍の騎馬隊を打ち破った。https://t.co/0nsA2qJF1H
— 日本史bot (@JapaneseHis_bot) September 28, 2019
この時武田軍をおびき出すために多数の足軽隊を柵の前面にだして武田軍と激闘を交えたという説があります。武田軍を消耗させ死傷者を増やし、鉄砲隊の効果を大きくするのが目的です。また、鉄砲隊も3000丁もなく1000丁であった。だから足軽隊中心の戦闘をするしかなかった。その根拠として戦場での発掘調査では弾丸が余りまりでなかったいう事実もあります。
とにかく信長の作戦通りに合戦は進み、武田軍を次々と敗走させました。
午後2時頃武田軍が崩れだしているのを見た信長は、総攻撃の命令を下しました。猛然と襲い掛かる織田・徳川連合軍。武田軍は総崩れとなり、勝頼は主従6騎で甲斐へ落ちていきました。
長篠の戦いをわかりやすく簡単に解説!!合戦後の状況
武田軍は馬場信春、山県昌景、内藤昌豊等の名将が討死にしました。そして足軽隊も6000名戦死したといわれています。
【今日の墓碑銘】
1575年6月29日。馬場信春が死去。戦国時代の武将。甲斐武田氏に仕え信虎・信玄の2代にわたり活躍。生涯で70回を超える合戦に参加したがかすり傷一つ負わず「不死身の鬼美濃」と呼ばれる。信玄没後は重臣筆頭として武田勝頼を補佐するが長篠の戦いで討たれた
(60歳・戦死) #生寄死帰 pic.twitter.com/wFZ4Fn1v6x— 岡村 義視 (@kamo1868) June 28, 2019
これに対して織田・徳川連合軍は主な武将の戦死者はいません。足軽隊が6000人戦死したといわれています。
いずれにせよ両軍足軽隊の損害は大きかったようで、激戦が繰り広げられたことがうかがえますね!
武田家は長篠の戦いでの名臣達の戦死の損失は計り知れないものがあり、勢力は年々弱体化していきました。また、勝頼の威望も衰えていきました。このことは家臣の忠誠度の低下につながります。
信長は武田家の衰弱ぶりを見て取ると、1582年(長篠の戦いから7年後)武田攻撃の軍をおこしました。信長が進撃すると、武田の家臣は次々と裏切っり降伏しました。勝頼はとうとう追い詰められて天目山で自害しました。
こうして信長は一人の強敵を倒し、天下統一へ向けて加速していくのです。
長篠の戦いをわかりやすく簡単に解説!!激突織田軍対武田軍!!まとめ
いかがでしたでしょうか?
今回長篠の戦いをわかりやすく簡単に解説することを主眼に記事をまとめました。
長篠の戦いは信長の天才性が輝きますね!
お楽しみいただけたら幸いです。
最後までお読みいただきありがとうございました。