幕末の長州藩きっての英傑と言えば、高杉晋作と久坂玄瑞ですね。
松下村塾の双璧と言われた、吉田松陰の高弟です。
映画や小説では、ライバルとなって時として対立してしまうように描写されますが、実際はどうだったのでしょうか?
そんな二人の関係を示すエピソードをまとめました。
二人の魅力が更に増すことと思いますので、最後までお読みいただければ幸いです。
Contents
高杉晋作と久坂玄瑞のエピソード
松下村塾での高杉晋作と久坂玄瑞の面白いエピソード
幕末長州藩の英傑と言えば、高杉晋作と久坂玄瑞でしょう。
まずは二人の出会いです。
弘化三年(1846)、高杉晋作が8歳、久坂玄瑞が7歳の時に萩城下平安古の吉松淳蔵の家塾で、机を並べて学問を学びました。
幼い時から知り合っていたんですね!
そして晋作が松下村塾に通いだしたころ、以下の手紙を玄瑞に送っています。
それは晋作が松下村塾に通い、吉田松陰に新しい価値観を教えてもらっていることを、父に反対されて、思うように活動できない状況を久坂玄瑞に内面を吐露した内容です。
僕には頭の堅い父がいる。毎日僕を呼びつけて、古びた価値観を言い聞かせるんだ!松下村塾へ行く時も隠れていっているほどだよ。くだらないことをしているとは思うけれど、父のいう事に逆らえば親不孝になってしまうからね。どうか僕の情けない状況を理解してほしい
高杉晋作が久坂玄瑞には本音を漏らしていたという興味深いエピソードですね。
吉田松陰から見た高杉晋作と久坂玄瑞
吉田松陰は優れた学者であると共に優れた教育者でもありました。
その松陰先生は二人をどうみていたのでしょうか?
・久坂玄瑞について
・高杉晋作について
また高杉晋作にこのような手紙を送っています。
久坂玄瑞と協力して事に当たるよう教えています。
高杉晋作と久坂玄瑞、お互いをどう見ていたのか?
吉田松陰の処刑後、久坂玄瑞は志士として全力疾走し、長州藩尊攘派を引っ張っていく存在となっていきました。
一方の高杉晋作は父を象徴とする長州藩200石の上士としての立場が足枷となり、志士としての過激な行動はできない状況になりました。
そのため勉学に励むこととなります。
二人の道は異なってしまいましたが、久坂玄瑞は晋作について、入江九一への書簡でこう言っています。
また、久坂玄瑞が長州藩の公武合体策を巡る政治運動を起こしたとき、晋作は一旦協力する姿勢を見せましたが、上海渡航をすることを選び久坂玄瑞達の元を去っていきます。
こんな時にも玄瑞は晋作について好意的なことを言っています。
(入江九一宛ての書簡)
高杉晋作の久坂玄瑞に対する思い
「久坂玄瑞」
晋作は招魂場県立を発案しました。
慶応元年(1865)8月6日に桜山招魂社落成の祭典に奇兵隊士と共に参列。
以下の二つの短歌を詠んでいます。
・弔わる 人に入るべき身なりしに 弔う人と なるぞはずかし
・おくれても おくれても又君たちに 誓いし言(こと)を 吾忘れめや
晋作はこう思ったに違いありません。
高杉晋作と久坂玄瑞のエピソードをまとめてみた
いかがでしたでしょうか。
今回は高杉晋作と久坂玄瑞のエピソードについてまとめてみました。
小説では微妙な関係の二人ですが、実際はこんなにも親しく、理解しあっていたんですね!
理想的な友達関係だと思います。
久坂が亡くなった後も晋作の胸の中では、久坂は明確に存在していたのでしょう。
最後までご覧いただき誠にありがとうございました。
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