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吉川元春をわかりやすく簡単に解説!
初陣での大活躍
吉川元春殿は、享禄3年(1530年)に毛利元就殿の次男として安芸吉田郡山城で生まれた!
天文9年(1540)、出雲国の尼子晴久殿が毛利家の居城吉田郡山城に攻めてきた時の戦いで、吉川元春殿は元服前の11歳で出陣した!!!
この時父・毛利元就殿は出陣に反対したが、執拗に出陣を主張する吉川元春殿に負け、出陣することを許したという。
そして尼子兵を何人も討ち、大活躍したのじゃ!
父の毛利元就殿は早くも吉川元春殿の才能を見抜き、「戦では元春に及ばぬ」と評した。
その後父毛利元就殿の元、戦で大活躍し、弘治元(1555)年には日本三大奇襲の一つ、厳島の戦いで陸軍の総帥として奇襲攻撃を敢行、毛利軍を勝利に導いたのじゃ!
以後、毛利家の軍事面の中心的人物になるのでござる。
山陰の司令官だった!
毛利家は毛利両川体制になり、山陰は吉川元春殿、山陽は小早川隆景殿が司令官となるのじゃ。
吉川元春殿が主に相手にしたのは、毛利家長年の敵、尼子氏でござる。
尼子は侮れぬ、
本拠の月山戸田城は難攻不落、宿敵山中鹿之助殿もいる。
月山富田城本丸跡
この名城月山富田城での戦いは、さしもの毛利軍も苦戦を強いられ、なんと約1年7か月も戦い、ようやっと落城させたのじゃ。
ここで尼子氏は滅亡した。
そう思っていたら、尼子勝久を擁する尼子再興軍が出雲国に攻めてきたのじゃ!
山中鹿之助
この尼子再興軍の実質的なリーダーは山中鹿之助殿で、強靭な心を持つ優れた武将であった。
吉川元春殿じゃなければ太刀打ちできなかったであろう!
そのため尼子再興軍との戦いは、なんと10年も続いた。
最後は吉川元春殿は上月城の戦いで尼子再興軍を敗り、尼子勝久殿は切腹、山中鹿之助殿は謀殺した。
羽柴秀吉との戦い!
尼子再興軍との戦いが過熱していく中、毛利家は織田信長殿との戦いが始まる。
中国地方に攻めてきたのは羽柴秀吉殿(後の豊臣秀吉)で、各地で厳しい戦いがおこなわれたのじゃ!
天正10年(1582年)の羽柴秀吉殿の清水宗治殿が籠る高松城の水攻めが行われた。
状況不利となった毛利側は和睦する。
ところが6月2日に本能寺の変で織田信長殿が死んでいたのじゃ!
そして羽柴秀吉殿は中国大返しをして、明智光秀殿を討つのでござる。
羽柴秀吉殿は織田信長殿が横死したのを明かさずに講和した!
吉川元春殿は凄まじく怒り、羽柴秀吉殿の撤退時に追撃することを主張したが、弟の小早川隆景殿に静止されたとの説がある。
一方で追撃せず見守ることを主張したとの説もある。
どっちが正しいのか!!
歴史はロマンがあるのう~
そして1586年、秀吉殿の九州征伐に従軍中に小倉城で57歳で他界した。
吉川元春殿の画像
吉川元春の逸話をわかりやすく簡単に解説!
三本の矢の教えは創作だった?
その根拠として毛利元就より長男の毛利隆元の方が先に他界しておる。
そのため毛利元就殿が三人の息子に宛てた「三子教訓状」を元にした後世の創作の可能性が強いとされておる。
妻は不美人で有名?
吉川元春殿の正室は新庄局というお方じゃ!
な、なんと新庄局は不美人であったという話が残っているのじゃ。
この縁談は典型的な政略結婚で、勇猛な熊谷信直の勢力を味方につけるためだったものといわれておる。
また、女性に溺れないように戒める意味もあったのだともいう。
吉川元春殿と新庄局は仲睦まじく、吉川元長と毛利元氏、吉川広家等4男2女の子宝を授かった。
実は教養人だった!
吉川元春殿は猛々しいだけじゃなく、実はかなりの教養人だったのじゃ!
なんと『太平記』40巻を月山戸田城攻めの陣中にて完璧に書写したのでござる。
この書写本は「吉川本」として文化財にもなっている。
なんでも古典文学研究上、大変貴重な資料となっているんだそうじゃ!
吉川元春の無敗の伝説
吉川元春殿は毛利家最強の武将として、生涯で合計76回にも及ぶ戦に出陣したといわれておる。
その戦績は64勝・12引き分で、負けたことがないとされているのじゃ。
しかし弘治2年(1556年)からの尼子晴久殿との戦にでは、何度か退けられており、厳密に言えば無敗ではなかったようでござる。
吉川元春をわかりやすく簡単にまとめてみた!
いかがでしたでござろうか!
今回は吉川元春殿がどんな人だったかを簡単に解説いたした。
吉川元春殿は非常に勇敢で初陣が11歳、その後山陰の司令官として戦い続けて宿敵尼子を倒すなど、毛利家の柱となって繁栄の基を作ったのでござる。
まさに毛利家にはなくてはならない存在だった。
この吉川元春殿がいたから、羽柴秀吉殿の毛利攻め、その後の毛利家の勢力維持ができたのでござろう!
最後までご覧いただき、誠に感謝いたす!