ちなみに第一次上田合戦は以下のサイトでまとめています。
⇛⇛https://nanapapa0303.club/sanada-dainijiueda/sanada/dainijiueda✏。
皆さん夜分に失礼します。
当寺に是非真田昌幸公と信之公、信繁公親御睦まじい銅像建立をしたいと考えています。是非皆様のお力をください。よろしくお願い致します。親子が仲良くいとつの方向を昌幸公が指を指し見ている、そんな銅像が希望です。 pic.twitter.com/Wr6iwTJjYh— 米子瀧山不動寺副住職竹前敬史(眞田家子孫) (@Ts7Es) October 2, 2019
真田幸村、父昌幸と上田合戦の前哨戦!!
秀忠は38000の軍を率いて中山道を西上してきた。秀忠は途中にある上田城を是が非でも落城させると意気込んでいた。無論諫める老臣もいた。本田正信は「大事の前の小事」と必死に諫めたが、秀忠は聞かなかった。
#上田城真発見 8#第二次上田合戦 は1600(慶長5)年9月。天下分け目の関ヶ原の戦いを前に、真田父子は父:昌幸と次男:信繁が西軍(石田三成)に、嫡男:信之が東軍(徳川家康)に相分かれて戦うことを決断します。#犬伏の別れ #上田合戦 pic.twitter.com/6mxGZbSARf
— 上田‘’真‘’発見 (@uedasanadamaru) July 26, 2019
小諸城に入場した秀忠は秀忠は、本多忠政と信之を降伏の使者として送る。しかし昌幸は交渉をいたずらに伸ばし一向に降伏する気をみせない。
これに怒った秀忠は9月4日信之に砥石城を攻めさす。守っていたのは幸村で、兄と戦うのを嫌がって、5日上田城に引き返した。
いよいよ本格的な戦いの始まりである。
真田幸村、父昌幸と共に上田合戦を激闘する
#上田城真発見 9
第二次上田合戦で西軍についた父: 真田昌幸と次男:信繁は、上田城にたてこもり徳川秀忠軍と戦います。
3万8000人の徳川軍に対し、真田軍はわずか2500人。軍事力の差をものともせず、またしても徳川軍に大きな損害を与えました。 pic.twitter.com/5UmieeS8L6— 上田‘’真‘’発見 (@uedasanadamaru) July 29, 2019
9月6日、両軍の小競り合いが始まった。昌幸の足軽一隊が偵察に出陣し、徳川軍と遭遇、攻撃を受けると逃げるふりをして、敵をあしらいながら伏兵のいる場所へ誘い込みました。
伏兵は徳川軍を痛めつけましたが、徳川軍も援軍を送りました。接戦が続きました。しかし徳川軍は大軍です。その内真田軍を押し始めました。じりじりと押された真田軍は遂に崩壊し、街路に逃げ込みました。
「上田市・上田城跡公園」、上田城は真田信繁(幸村)の父、真田昌幸によって築城され、二度にわたりる上田合戦で徳川軍を撃退した難攻不落の城。今、目にする城は、仙石忠政によって寛永年間に再建築城されたもの。現在は上田城跡を核とした公園で、ケヤキ並木や千本の桜など、花と緑の市民憩いの場。 pic.twitter.com/uUt1rHzw7z
— 田神晋吾 (@kumatax) November 18, 2018
そして勝ちに乗じた徳川軍が上田城に迫ります。徳川勝利かと思った矢先、虚空蔵山の林から真田軍の一隊が踊りだし秀忠の本営を急襲しました。徳川軍はその銃声と喊声に混乱状態となります。
それを見越したように上田城の大手門が開かれ、中から鉄砲が一斉に火を吹きました。そして幸村隊も突撃してきます。
昌幸、幸村が得意とするゲリラ戦法の術中にはまった徳川軍は、混乱し惨めな状態に陥いりました。続々と援軍を繰り出したので完全な崩壊には至らなかったが、徳川軍の明らかな敗北でした。
真田軍は頃合いをみて場内に退き、城門を閉ざしました。
こうして徳川軍は多大な損害を蒙り、責任者には切腹や配流が言い渡されたのです。
7日、秀忠は上田城攻略を諦め、中山道を西上しました。
しかし美濃赤坂に到着したのは関ケ原合戦後の4日後、19日のことでした。
真田幸村、父昌幸と上田合戦にて徳川軍を翻弄!大軍相手に大勝利!!まとめ
いかがでしょうか。
今回は真田幸村が父昌幸と協力しあって上田合戦で徳川の大軍を相手に勝利した状況を記事にまとめました。
真田父子は恐るべしですね!!
徳川もさぞおそれたことでしょう。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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