【今日の墓碑銘】
1582年6月21日。織田信長が死去。戦国武将。桶狭間の戦いで今川義元を討つ。足利義昭を奉じて上洛、後に室町幕府を滅ぼした。楽市楽座などの革新的な政策を実施し安土城を築城。明智光秀の謀反により本能寺に死す(48歳・自害) #死は人生の終末ではなく生涯の完成である pic.twitter.com/BnpXMX0Ub6— 岡村 義視 (@kamo1868) June 20, 2017
桶狭間の戦いとはわかりやすく説明!!どんな戦いだったの?今川義元出陣
【今日の墓碑銘】
1560年6月12日。今川義元が死去。駿河・遠江国の戦国大名。花倉の乱で異母兄を討ち家督を継承。領国経営に優れた手腕を発揮し今川家の全盛時代を築く。桶狭間の戦いで壮絶な最期を遂げる。公家文化に精通していた(41歳・討死) #死は人生の終末ではなく生涯の完成である pic.twitter.com/SQTNQGGeOz— 岡村 義視 (@kamo1868) June 11, 2017
今川義元は永禄3年(1560年)5月10日に先鋒隊を出陣させ、11日に自らも出陣しました。25000人の大軍団です。この大軍団は18日に織田領沓掛に着陣、信長攻撃の最後の準備を行いました。
一方信長は清州城にいて、今川軍の情報収集をしていました。この時林佐渡守重臣達は信長に籠城策を進言している。これに対して信長は「籠城策は必ず自滅する。国境を越えて合戦する」といって聞きませんでした。
5月19日、今川軍は遂に動き出しました。夜明けに松平元康(のちの徳川家康)が丸根砦を急襲、守っている佐久間盛重を討取り陥落させました。
丸根砦ずら。
大高城包囲の城のひとつで沓掛城〜大高城の補給路を見下ろす位置にある。
桶狭間の戦いで今川方の松平元康に攻められて全滅した。 pic.twitter.com/HGqmUc9tWv— 雪風 (@DD102_YUKIKAZE) September 21, 2019
そして朝比奈寿能が鷲津砦も陥落させました。
初戦は今川軍大勝利でしたのです。勝利に酔う義元は大高城に向かいます。この時義元は「わが旗の向かうところ鬼神も亦これをさく」という言葉を残しています。義元が有頂天になっているのが分かりますね!
桶狭間に着いた時、全軍に休憩を命じました。義元は休憩地を「桶狭間の山の中間、田楽間」にしました。田楽間は丘陵の山あいの窪地で、左は森、右は泥田に囲まれていた。
本陣は縦隊隊形のまま昼食をとりました。警戒兵は出されていましたが、展望がきかない地形のため、十分にその役をはたすことはできませんでした。つまり織田軍の動きを完全には把握できない状況だったのです。油断していたのでしょう。
一方信長は午前二時頃、湯漬けをかきこみ、「人間50年 下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり」という敦盛の舞を舞い、決死の覚悟で出陣しました。
突き従う者わずか数騎。疾風のような出陣に誰もついてこれませんでした。午前八時熱田神宮着。総数は200騎。戦勝祈願をしている最中に織田軍の将兵が集まり、総勢1000になっていました。
この時信長は「内陣(熱田神宮の)で武具の音を聞いた。我が勝利疑いなし」と将兵に言い、士気を鼓舞しました。
午前9時に熱田神宮を出発、途中丸根、鷲津両砦陥落の報を受けた信長は念珠を肩にかけ「汝らは今日生命を余にあずけろ」と将兵に呼びかけ、決死の覚悟を持たせました。将兵の心を一つにするために巧みに神仏を利用したのです。信長は人心掌握に長けていました。
こうして将士一丸となった織田軍は鳴海方面に側面警戒軍300をさき、丹下、善照寺の兵を合わせて進みました。善照寺東方で兵の点検を行ったところ、総勢3000の兵が集まりました。義元本陣に強襲をかけうる軍勢が、ようやっと集まったのです。
桶狭間の戦いとはわかりやすく説明!!どんな戦いだったの?織田信長突撃
桶狭間の戦い、
中学校当時の先生「今川義元が上京する際に油断して信長にやられた」
当時の私「へぇ〜義元っておごっていたんだなぁ…」今、
「義元は救援のため尾張に行ってるし、めっちゃ丁寧に攻めてるじゃん…」#おんな城主直虎 #虎絵 pic.twitter.com/Bdrz3fISdW— こんでん (@hiroju55) March 5, 2017
善照寺東方から進軍しようとしていた時、家臣の梁田正綱の放った間者より、義元が田楽狭間で休憩中であるとの情報を得ました。
チャンス到来です。かねてから企図していた義元本軍へ突撃し、義元の首をはねる機会がやっときました。ここまでくるのに大勢の家臣を犠牲にしています。失敗は許されません。
信長は1000名を中島付近に置いて、自らは2000人の兵を率いて義元本陣へ潜航進軍しました。典型的な陽動作戦です。
信長は北方の丘陵を迂回し、現在の東海道を横切り、一路田楽狭間へと間へと進軍しました。正午頃まさに信長軍が田楽狭間寸前のところに来た時、突然にわか雨が激しく振り出し、義元軍へと吹き付けました。義元軍はあわてて木の下などに算を乱して駆け込みました。
午後二時頃、義元軍のこの様子を見ていた信長は、雨が止んだのをみて、「狙うは義元の首ただ一つ。他の者は打ち捨てにいたせ。者ども続け」とついに総攻撃の命令を下しました。
<甲相駿三国同盟・桶狭間の戦い>甲相駿三国同盟とは、甲斐の武田信玄、相模の北条氏康、駿河の今川義元の間で結ばれた和平協定。◆桶狭間の戦いは、尾張国桶狭間で行われた織田信長と今川義元の戦い。織田軍が少数の軍勢で今川軍を破った。 pic.twitter.com/0ezQ7C2ums
— 日本刀♥LOVE (@nihonnoto2) September 25, 2019
太子ヶ根山を下り、大音声と共に義元軍になだれこむ。完全に不意を突かれた義元軍は、当初は信長軍の突撃が味方の喧嘩かと誤解するほど混乱していました。
更に義元軍は武装を解いていたということもあり、統制の取れた信長軍の的確な攻撃に押しに押され次々に打ち取られました。
午後二時過ぎ、義元の旗本が信長軍に発見されました。「旗本はあそこだ。全員旗本を攻めろ」と義元を直接狙うように指示します。
義元の首さえ取れば織田軍の逆転勝利です。全員が義元の首を狙い襲い掛かりました。義元の旗本も奮戦しましたが、勢いは織田軍にあり、服部小平太の刃により遂に義元は討取られました。
この戦いにより、織田信長は天下への第一歩を踏み出したのです。
桶狭間の戦いとはわかりやすく説明!!どんな戦いだったの?まとめ
いかがでしたでしょうか?
今回は桶狭間の戦いに焦点を当てて記事を書きました。
信長は僅か3千程の兵で智謀の限りを尽くし、25000の今川軍を打ち破りました。
中々勇気づけられる話ですね!
管理人も信長のような勇敢さを少しでも持ちたいと思います。
最後までお読みいただきありがとうございました。
HPT名古屋二日目現地に今川義元公のリベンジマッチに来ました!!桶狭間の戦いがジオラマ再現されてるかなりエモい公園です!! pic.twitter.com/FnMkMPNuYW
— るりえ (@rurie_at) August 6, 2017