黒田長政

黒田長政はどんな人?生い立ちから最後までを分かりやすく解説!

管理人のヤスマサでござる。昨今巷では黒田長政殿がどんな人かを知りたいという声が溢れかえっておる
美紀姫
美紀姫
黒田官兵衛殿の息子さんじゃのう
左様でござる。黒田長政殿は知名度の割にはどんな人かよく知られていないのではないかと思うのでござる
美紀姫
美紀姫
そういえばわらわも良く知らぬ!豊臣家の家臣から徳川家の家臣になって出世したと聞く。なぜそんなにうまくいくのじゃ?
一言では言えませんが、中々器用な御仁でござる
美紀姫
美紀姫
黒田長政殿がどんな人なのか、知りたくなってきた!ヤスマサ、分かりやすく説明いたせ
畏まってそうろう!では最後までご覧あれ!

 

黒田長政はどんな人?生い立ちから最後まで

 

生い立ち

 

永禄11年(1568年)12月3日、黒田長政殿は播磨国姫路城で、豊臣秀吉殿の軍師として有名な黒田官兵衛殿の嫡男として誕生した。

幼名は「松寿丸」殿でござる。

当時の黒田家は、播磨国御着城の城主小寺政職殿の家臣であった。

当時の播磨国は東から織田信長に攻められ、西からは毛利に攻められる厳しい状況でござった。

小寺家も戦乱に巻き込まれ、最初は毛利について織田方と戦ったのじゃ!

そんな中、天正6年(1578年)に織田信長殿に一度降伏した荒木村重殿が反乱を起こした。

父の黒田官兵衛は親しかった荒木村重殿に反乱を止めさせようと説得するため荒木村重殿の居城有岡城へ乗り込んだが、荒木村重殿は説得に応じず拘束されてしまったのじゃ!

この時帰ってこない黒田官兵衛殿が、荒木村重殿に裏切ったとと勘違いした織田信長殿は、松壽丸殿(この時10歳)を処刑せよと命令したのじゃ。

父の同僚・竹中半兵衛殿は処刑役を買って出た。

半兵衛殿は松壽丸殿を居城・菩提山城の城下に引き取って家臣に匿させ、信長殿には処刑したと虚の報告をしたのでござる。

有岡城の陥落後父が救出されて疑いが晴れ、父子は無事に姫路へ帰れたのじゃ。

 

豊臣政権での活躍

 

元服後は父と共に羽柴秀吉殿(後の豊臣秀吉)に仕え、各地を転戦した。

参考に下記を参照してくだされ!

・天正10年(1582年) 備中高松城攻め(敵勢力:毛利)

・天正11年(1583年) 賤ヶ岳の戦い(敵勢力:柴田勝家)

・天正12年(1584年) 小牧・長久手の戦い(敵勢力:徳川家康)

大坂城の守りを任され、雑賀宗、根来宗、長宗我部水軍と戦う

・天正15年(1587年) 九州征伐(敵対勢力:島津義久)

 

黒田長政殿はこれらの戦いの功績により、豊前国中津12万5千石を授かったのじゃ。

そして天正17年(1589年)の21歳の時に、黒田家の家督を相続するのでござる。

 

文禄元年(1592年)に朝鮮征伐(文禄・慶長の役)が開始される。

黒田長政殿は加藤清正殿と先方隊として戦い、負傷したが奮戦、朝鮮軍を打ち破っていったのじゃ!

明の大軍が日本軍に激しい攻撃を加えてくると、補給が上手くいっていない日本軍は不利になり、占領地を失ってしまうのでござる。

慶長3年(1598年)8月に豊臣秀吉殿が他界した。

そのため朝鮮で戦っていた日本軍は撤退し、黒田長政殿も帰国したのじゃ。

そして石田三成殿と激しく対立するようになっていく。

 

関ケ原から最後まで

 

豊臣秀吉殿が他界すると、石田三成殿等の文治派と対立が激しくなったこともあり、徳川家康殿と懇意になり、家康殿の養女の栄姫(保科正直の娘)を正室に迎えたのじゃ。

家康殿の養女を妻にするのじゃから、余程重要な人物と見られていたのじゃのう。

慶長4年(1599年)閏3月に前田利家殿が死去したのじゃ、

それにより黒田長政殿等武断派は石田三成殿を襲撃する事件が起きた

文治派との対立は激化する一方だったのでござる。

慶長5年(1600年)の関ケ原の戦いでは東軍(徳川方)の武将として参戦。

石田三成殿の家老・島清興殿を討ち取る大戦果を挙げた。

加えて西軍の小早川秀秋殿や吉川広家殿等の諸将の調略を任され、見事に裏切らせている。

この戦功で家康殿から関ケ原の戦いで一番の功労者として御感状を授かり、筑前国名島に52万3,000余石の大封を与えられたのである。

慶長6年(1601年)に新しい領国の筑前国に父と共に入府し、父の黒田如水(官兵衛)殿と共に福岡城を築城、初代福岡藩主となった。

慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では江戸城の留守居役を務め、翌年の大阪夏の陣では徳川秀忠殿の下で豊臣勢と激しく戦ったのでござる。

黒田長政殿が書かせた「大坂夏の陣屏風」は、国の重要文化財である。

元和9年(1623年)8月、徳川家光殿の征夷大将軍の宣下のため上洛していたが、長政殿は病がかなり進んでいたのじゃ。

そして廃嫡を考えたこともあった嫡男忠之殿の器量を心配しながら息を引き取った。

 

黒田長政がどんな人か分かるエピソードをご紹介

 

 

画像

 

敵将にも礼儀を尽くす!?

 

黒田長政殿は石田三成殿とはそりが合わず、激しく敵対していた。

まあ、本文の通り襲撃までしたくらいじゃ!

その後関ヶ原の戦いが起こると、黒田長政殿は東軍、石田三成殿は西軍として戦い、三成殿は敗軍の将となる。

そのため三成殿は大津城の門前で縛られてさらされていたのじゃ。

三成殿を恨む武将からは悪態をつかれ、福島正則は唾まで吐いたとされる。

黒田長政殿はどう振舞ったかというと、馬から下りてかつての敵である三成殿に敬意を表したのじゃ。

なお三成殿が着ていた服が汚れていたため、自分が来ていた羽織を着せたという話もある。

黒田長政殿は敗北した将にも礼儀を尽くす武将じゃったのじゃ!

 

虎退治は本当は加藤清正ではなかった!?

 

朝鮮出兵の折の加藤清正の虎退治の逸話は知らぬ者はいないのではないかという位有名な話じゃ!

しかし実は虎を退治したのは黒田長政殿と家臣達であったのじゃ。

文禄3年(1594年)朝鮮の地で黒田長政殿が鉄砲で朝鮮虎を討取ったとされる。

他にも虎退治の話と同じように、黒田長政殿の功績や逸話は、他の武将がしたこととされているのでござる。

『絵本太閤記』などの書籍には、他の武将の功績や逸話として書かれているため、長政殿の功績や逸話が少なくなり、評価が低くなっているのではないかという声が上がっておる。

しかし近年長政殿の研究が進んでいることから、評価が改まる可能性がある。

 

黒田長政はどんな人?生い立ちから最後までをまとめてみた

 

いかがでしたでござろうか!

今回は黒田長政がどんな人かについて記事を執筆いたした。

 

今回のまとめは以下の通り!

 

・10歳の時に織田信長殿に処刑されそうになったが、竹中半兵衛殿に命を助けられた

・豊臣秀吉に仕え武功を立てる

・関ケ原の戦いでの功績により、筑前名島に52300石の大封を授かる

・徳川政権にしっかりと対応し、功績を上げた

 

黒田長政殿に関する研究がすすんでおるようじゃ!

新たな事実が判明しそうじゃのう。

最後までご覧いただき、誠に感謝いたす。

 

 

COMMENT

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です