上杉謙信

手取川の戦いの全て!戦国最強上杉謙信の戦術と戦での強さを徹底検証

管理人のヤスマサでござる。昨今巷では手取川の戦いでの上杉謙信殿の用兵の凄さと上杉軍と織田軍の布陣動きを知りたいとの声が充満しておる。
美紀姫
美紀姫
上杉謙信殿とは戦国最強といわれている武将よね!
左様でござる。あの甲斐の虎武田信玄公と互角の存在とされています
美紀姫
美紀姫
それは相当の強さじゃな。手取川の戦いは上杉謙信殿が織田軍と戦った合戦と聞いておる
左様でござりまする。上杉謙信殿が織田軍の大将柴田勝家殿を破った戦にござる。美紀姫様は手取川の戦いで発揮された上杉謙信殿の戦術と強さを知りたくないですか?よかったら教えて進ぜよう
美紀姫
美紀姫
それは知りたいが、わらわは手取川の戦いも上杉謙信殿も余り知らん。そんなわらわが分かるかのう?
大丈夫にござる!分かりやすく説明いたす。では最後までご覧あれ!

 

なお、実はこの戦いは記録が少なく不明瞭な部分が多い。そのため両軍の兵数や動きに関しては色んな見解があるのじゃ!しかしながらこのコンテンツでは、手取川の戦いの定説をご説明いたす

 

手取川の戦いの経緯!上杉謙信の能登攻略

 

天正4年(1576)の秋頃、上杉謙信殿は能登へ進攻した。

七尾城の城主畠山春王丸殿は籠城して上杉軍に対抗したのじゃ。

畠山春王丸殿はまだ幼く、重臣の長続連が家中の実権を握っていのでござる。

七尾城は難攻不落の名城で、長続連は籠城すれば上杉軍に勝てると思っていたのじゃ。

上杉謙信殿は七尾城の支城を落とし、兵糧攻めをいたした。

城攻めは年を越してしまい、上杉謙信殿に関東で北条氏の攻勢に対する援軍の要請が届き、七尾城の包囲を解いて春日山城に引き上げた。

上杉勢退却後、畠山勢は攻略されていた支城を落とし、能登の戦況は悪化してしまった。

これに対して上杉謙信殿は天正5年閏7月に、2万の軍勢で能登に攻め入り七尾城を再度包囲したのじゃ。

畠山家当主の春王丸病没。

この劣勢に長続連殿は安土城の織田信長殿に援軍を要請したのでござる。

織田信長殿は柴田勝家殿に1万8000の兵で七尾城に向わせ、織田殿も3万の兵を率いて出陣したのじゃ。

しかし、七尾城内では親上杉の遊佐続光らの重臣がが反乱を起こして長一族を討ったため、9月15日、上杉謙信殿は遂に七尾城を落城させたのじゃった。

 

手取川の戦いの全て!戦国最強上杉謙信の戦術と戦での強さとは!

 

上杉軍の動き

 

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上杉謙信の肖像画

 

天正5年(1577)年9月17日に七尾城に続き、能登の要衝末森城を落とし、能登一国を完全制覇いたした。

上杉軍は勢いに乗り、加賀一向一揆を味方につけて兵2万を率いて松任城へ入場する。

この時上杉謙信殿は加賀一向一揆の協力により、七尾城に向かって進撃してくる織田軍の動きを完全に掴んでいたのでござる。

具体的には織田軍が越前から加賀に進み、小松、本折、安宅、富樫らの本願寺一揆勢を焼き討ちしながら北に進撃しているとの情報を得ていたのじゃ!

織田軍は柴田勝家、明智光秀、羽柴秀吉、前田利家、滝川一益、丹羽長秀、佐々成政という織田家屈指の武将達で構成、1万8千の兵を率いてきた。

後続には織田信長殿自ら3万の兵を率いて、進軍していたのでござる。

 

そのため上杉謙信殿は織田信長殿が決戦する気でいることを察知し、「堂々これを迎撃せん」と決意したのでござる。

 

織田軍の動き

 

織田軍は七尾城陥落をまだ知らず、手取川を渡って加賀北部に進撃、石川郡水島に駐屯した。

この手取川を渡るかどうかの軍議で柴田勝家殿と羽柴秀吉殿が口論となり、羽柴秀吉殿が織田信長殿の許しが無いのに帰ってしまうという事件が起きるのじゃ。

それでも柴田勝家殿は手取川を渡ってきのじゃから、並々ならぬ覚悟を持っていたものと見受けられる!

9月23日、七尾城陥落の情報をようやっと入手した織田軍は撤退を決意、深夜に撤退を開始いたす。

 

手取川の戦い

 

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手取川を挟んだ上杉軍と織田軍の図面

 

織田軍が退却を開始したころ、上杉謙信殿は松任城にいた。

松任城は織田軍陣地からかなり近い場所にあった。

そのため織田軍が手取川を渡り退却しようとしているとの情報がいち早く伝わり、上杉謙信殿は即座に攻撃を決意し、織田軍を急襲したのじゃ。

上杉軍は丁度手取川を渡ろうとしている織田軍の背後を突く形となり、戦いは一方的に進んだのじゃ。

上杉軍は勢いづき、織田軍を圧倒、手取川に追いつめられるもの数知れず、逃げ遅れた者

1000人余りをことごとく討取るという大戦果を上げたのでござる。

ちなみに手取川はこの時連日の大雨で水かさが増しており、激しい濁流となっていたのじゃ。

じゃから渡河するのは大変難儀なことで、織田軍は川に逃げても溺れる者が多数に上り、渡らなかった者は上杉軍に討取られるという展開じゃった。

この手取川の戦いで上杉謙信殿は軍神と呼ばれるにふさわしい強さを発揮したのじゃ!

なお、手取川という名前の由来は、木曾義仲が渡河しようとした時に流れが激しかったため、流されないように手をつないで渡るようにと指示をした故事から名づけられた。

 

 

この時背後にいた信長は、勝家隊が敗走したと聞いて、ただ一騎馬首を返して真っ先ににげかえったといわれています。

そのことを皮肉った京童の歌が今も残っています。

 

「上杉に逢うては織田も手取川

はねる謙信逃げるとぶ(信)長」

 

手取川の戦い!その後の上杉謙信

 

手取川の戦いの後、9月26日に能登七尾城に戻り城の修復を行った。

その時本丸で読んだとされる漢詩がある。

「霜は軍営に満ちて秋気清し

数行の過雁月三更

越山併せ得たり能州の景

さもあらばあれ 家郷の遠征を懐うは」

この漢詩は上杉謙信自身の作とされておるが、真偽のほどは定かではない。

しかし上杉謙信殿の胸中をうまく描写しているものといえます。

拙者には翌年に行う大作戦への覇気がにじみでているかのように見受けられる。

上杉謙信殿は翌年3月15日に出陣をする予定だった。

しかし3月9日に倒れ、あろうことか13日に他界してしまったのじゃ。

出陣の先は関東あるいは京のどちらかであったと言われている。

実に惜しむべき名将じゃ!

 

手取川の戦いの全て!戦国最強上杉謙信の戦術と戦での強さを徹底検証してみた

 

いかがでしたでござろうか?

今回は手取川の戦いでの上杉謙信殿の強さや用兵に注目して記事を執筆いたした。

上杉謙信殿は軍神と呼ばれるだけあって、その作戦は実に冴えわたるものがあるのう~

戦機を感じたら素早く出撃を決断!

そしてその決断に間違いはない!

この意思決定の速さこそ、上杉謙信殿の強さなんじゃろう。

まさに神がかったような名将じゃのう。

上杉謙信殿については、また記事を書いていこうと思っています。

最後までお読みいただき、誠に感謝いたす。

 

 

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