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武田勝頼を簡単にわかりやすく解説!
武田信玄の正統な後継者ではなかった
武田勝頼は天文15年(1546年)に武田信玄殿と諏訪御料人の間に誕生しました。
武田信玄の4番目の男の子です。
本来家督を継ぐことは到底望めぬが、兄たちが以下のようになってしまった。
- 長男の武田義信は自害させられた
- 次男の武田信親は盲目で出家
- 三男の武田信之は早世
したがって三人の兄たちが後を継げないため、四男の武田勝頼殿が武田家を継ぐことになったのです!
ここで問題が!な、なんと武田勝頼殿は元々諏訪家の後継者だったのじゃ!!
諏訪家とは武田信玄公が滅ぼした信州の一族。諏訪大社上社の大祝の名族じゃ!
武田勝頼は武田信玄の息子の中では一段低く、一門衆として武田本家を支えることを期待されていました。
しかし兄たちの不運により、武田家第20代当主となりました。
武田勝頼は嫡男信勝が元服(16歳)になるまでの一時的な当主(陣代)だったという説がある
逆境からのスタートですね!
実は戦争が強かった!
武田勝頼が当主であった時期(1573~1582)、織田信長は強敵を討ち破って支配地域を拡大し、天下統一に向けて大きく前進していた時期でした!
武田信玄殿が他界すると、織田・徳川連合軍は攻勢にでてきました。
ちなみに武田と織田・徳川連合軍の石高と兵力は、
武田軍(通算石高数:130万石・総兵力:約3万)
織田・徳川連合軍(通算石高数:約361万石・総兵力:約9万)』
石高、総兵力共に織田・徳川連合軍が3倍近く多い。
この戦力で戦うのじゃから、武田勝頼殿の苦労は並大抵のものではあるまい!
しかし武田勝頼殿は外征し、東美濃の明智城、北三河の足助城と武節城、遠江の高天神城を攻め落としたのじゃ!
隣国の大名がびっくりするような大攻勢!
ここまでしなければ、家臣の信用は得られなかったのでしょう。
しかし隣国の諸大名には武勇を見せつけることはできました。
かなりの強者じゃのう~
長篠の戦いをわかりやすく解説
さて、有名な長篠の戦いじゃ!
1575年(天正3年)5月、武田勝頼殿1万5千の兵を率いて長篠城を包囲。
そして織田信長殿が3万、徳川家康殿が8千の兵を率いて着陣したのでござる。
戦いは以下のように進展していったとされる。
織田・徳川連合軍は陣の前に馬防柵を設置し、城塞のようにしていた。
そこへ武田軍が騎馬隊を前面にして襲い掛かってきたのじゃ!
しかし堅固な柵と手前の泥田で騎馬隊が充分に威力を発揮できず、一騎また一騎と討取られていった。
「信長公記」には両軍が約9時間戦い続けて、武田軍が戦死者数1万にも及ぶ甚大な損失がでたとされておる!
この戦いで武田勝頼殿が織田・徳川連合軍の倍以上の大軍に突撃した理由は、未だに謎となっている。
ただ今まで言われている武田軍の突撃の理由は、
- 武田勝頼殿が連戦連勝で驕っていた
- 自分を軽く見る宿老に、力を見せつけなくてはならなかった
- 武田方が退路を遮断されて、突撃するしかなかった
- 織田信長の家臣佐久間信盛が内応するという情報があった
未だはっきりせぬが、
唯一明確になっていることは、信玄公以来の重臣たちが数多く討死にしていることである。
余程激しい戦闘が行われたのじゃろう!!
長篠の戦い以降の状況
長篠の戦いで大損害を受けた武田家に、徳川家康殿は容赦なく攻撃をかけてきたのじゃ。
遠江を攻撃し、武田方の城を次々と攻略した。
この不利な状況を覆そうと、外交面に注力する。
御舘の乱で上杉景勝に味方し、同盟を結ぶ。
御舘の乱とは上杉家の後継者争いの事じゃ!上杉謙信殿が亡くなった時に後継者をはっきりさせなかったことが原因で、甥の上杉景勝殿、北条家からの養子の上杉景虎殿が後継者を争って起きた内乱のことじゃ!上杉景勝殿が勝利し、景虎殿は自害した。
しかしこの同盟で北条家を敵にまわしてしまったのじゃ!
駿河は北条、遠江は徳川から挟撃され、武田方の城は次々と落とされた。
こうして武田家の戦力は弱体化していったのでござる。
武田勝頼殿の最期をわかりやすく解説
1582年2月、木曽義政殿が織田信長殿に寝返ったのじゃ!
この寝返りにより、とうとう織田信長殿の甲州征伐が開始された!
信長殿の嫡男信忠殿を大将とする織田方の大軍が攻めてくると、ほとんどの武将が戦わずして降伏、反抗したのは仁科盛信殿(武田勝頼殿の弟)だけじゃった。
武田勝頼殿は為す術もなく敗走していったのじゃ。
そして3月11日、天目山に辿り着いた。
この地で織田方と最後の戦いをして奮戦するも衆寡敵せず自害した。
37歳の人生であった。
武田勝頼を簡単にわかりやすくまとめてみた!まとめ
いかがでござろうか!
今回は武田勝頼殿を簡単にわかりやすく解説いたした。
勝頼殿は武田家の正統後継者ではなく、嫡男信勝殿の陣代であった。
これは相当辛かったじゃろう!
しかし勝頼殿は信玄公以上に武田家の勢力を広げた勇将じゃった。
最後はあっけなかったが、近年優れた武将と評価し直されたのは勝頼殿のファンである拙者には喜ばしいことじゃ!
このブログを読んだことで、武田勝頼殿という武将に関心を持ってくれる方が増えれば光栄にござる!
最後までご覧いただき、誠に感謝いたす!