毛利勝永

毛利勝永が最強といわれる理由は?大阪の陣での見事な采配を分析

管理人のヤスマサでござる。昨今巷では毛利勝永殿が真田幸村殿を超えて最強の武将ではないかという声で満ち満ちておる
美紀姫
美紀姫
ヤスマサ!毛利勝永殿と言えば、真田丸で岡本健一殿が演じた武将よのう~
左様にござる。あまりの好演で注目を集めもうした
美紀姫
美紀姫
それは良きかな!知名度の低い名将の名が上がるのは、わらわもうれしい~
今回は巷の声に応え、毛利勝永殿が最強の武将かどうかを検証してみました
美紀姫
美紀姫
うむ、それはわらわも関心がある。ヤスマサ、早う説明いたせ
かしこまりました。では最後までご覧あれ

 

毛利勝永が最強といわれる理由は?

 

歴戦の勇将

 

毛利勝永は父の森吉成の代から豊臣秀吉の家臣でした。

九州征伐で手柄を立てた毛利父子は加増され、父は豊前小倉6万石、勝永には豊前国に1万石が与えられました。

そして秀吉の命令により、毛利姓を名乗るようになり、父は毛利勝信に改名したのです。

なおこの毛利姓ですが、西国の雄毛利輝元とは何も関係ありません。

毛利勝永は豊臣家譜代の臣として、豊臣政権で順調に昇進していくかのようにみえましたが、関ヶ原の戦いが始まり、西軍に付いた勝永は所領を没収されてしまったのです。

尚、負けたとはいえ毛利勝永は朝鮮出兵(慶長の役)では蔚山城の戦いで勇戦し、関ヶ原の戦いでも伏見城攻略戦で活躍をして、西軍の総大将毛利輝元から3000石を加増されるほどの勇将でした。

 

美紀姫
美紀姫
ほう、毛利勝永殿は戦歴は豊富なのじゃな。しかも戦ぶりが評価されている
左様にござる。この戦闘経験が大阪夏の陣での奮戦に生かされていると考えられているのでござる

 

関ケ原の敗戦後、土佐の大名で旧知の山内一豊に預けられました。

山内家からは厚遇され、1000国の知行を与えら、それなりに裕福な暮らしを送っていたようです。

 

大阪城入城

 

1614年、豊臣家と徳川家の対立が激しくなり、一戦交えるのは時間の問題となってしまいました。

豊臣秀頼は武名の高い浪人を集め、毛利勝永にも大阪城に参陣せよとの書状が届いたのです。

 

毛利勝永
毛利勝永
大阪城に入城したい。だが残った妻子は処刑されてしまうかもしれない

 

勝永は悩み抜き、妻に豊臣秀頼からの書状を見せて悩みを打ち明けたところ、「心配ならば我々は海に身を投げましょう」と気丈に返答。

 

毛利勝永
毛利勝永
よし、では行こう

 

そして毛利勝永殿は若い頃に衆道の関係にあった当主の山内忠義殿を助けるため大阪城の包囲軍(徳川軍)に参陣したいと申し出て、妻と二人の子供を人質に差し出しました。

こうして山内家を信用させ、長男と共に土佐を出発し、見事に大阪城に入城したのです。

中々の策士ですね!!

 

大阪冬の陣

 

 

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大阪城

 

毛利勝永は豊臣家の譜代家臣であったため、豊臣方の主だった将から一目置かれ、大坂城の五人衆と称されたのでござる。

そこで徳川方との戦い方をどうするか話し合いました。

 

真田幸村
真田幸村
真田幸村は積極的に打って出て、野戦で決着をつけるべし

 

真田幸村は積極策を主張しました。

毛利勝永と浪人衆はこの積極策に賛同したのですが・・・・

豊臣家宿老の大野治長等は籠城策を主張!

議論の結果、籠城策に決定してしまったのです。

毛利勝永は大阪城の西北隅、現在の今橋付近を守備することになりました!

 

美紀姫
美紀姫
毛利勝永殿はどのような戦いをしたのじゃ?真田幸村殿は真田丸の戦いといった派手な活躍をしているが!
美紀姫様!持ち場をしっかりと守りましたが、目立つ活躍はしておりませぬ。このことは拙者は毛利勝永殿が野戦が得意の勇将だからじゃと思い候

 

慶長19年(1614年)12月20日に豊臣方と徳川方は和平を結びました。

和議には重要な問題があった!

  • 二の丸、三の丸の破壊
  • 惣構の南堀、西堀、東堀を埋める
  • 淀殿を人質としない替わりに大野治長、織田有楽斎を人質に出す

 

毛利勝永
毛利勝永
そのような和議は反対じゃ

 

真田幸村
真田幸村
勝永殿の言う通りじゃ

 

毛利勝永、真田幸村等の大阪5人衆は強く反対しましたが、淀殿や大野治長等により和議が結ばれてしまいました!

こうして二の丸、三の丸を破壊され、城の防御に大切な堀も埋められてしまったのです。

1615年、徳川家康は和議を破り、再び大阪に兵を向けました!

この和議は最初から徳川の陰謀だったのだと思います!

 

大阪夏の陣

 

大阪城は堀が埋められ、もはや防御能力が無くなっていました。

 

毛利勝永
毛利勝永
大阪城は裸城じゃ。もはや野戦で決着をつけるしかない

 

豊臣方は野戦で雌雄を決するしか方法がなくなってしまったのです。

 

道明寺の戦い

 

豊臣方は真田幸村や毛利勝永、後藤又兵衛等の歴戦の浪人衆が、道明寺近くの国分村という狭い隘路のような地で徳川方先鋒を打ち破ろうと意見し、豊臣方上層部に受け入れられた。

後藤又米、毛利勝永、真田幸村は大阪城を出発。

後藤又兵衛が道明寺に先に到着した。

しかし国分村は徳川方に占領され、後続は来なかったのです。

後藤又兵衛殿は2800の兵と共に小松山に登り陣を構えました。

そこに徳川勢の大軍が襲い掛かり、8時間の激闘の末に後藤又兵衛殿は戦死してしまいました。

その後毛利勝永隊、真田幸村隊の大阪方最強の部隊がようやっと到着し、伊達隊等と激しく戦闘し圧倒したのでござる。

じゃが劣勢を覆すまでには至らず退却しました。

この時毛利勝永が殿(しんがり)を担当し、敗残兵を収容し大阪城に戻りました。

殿は戦で特に難易度が高い。

徳川方の大軍の激しい追撃を受けながら、見事に退却した毛利勝永の采配は、大きく評価されます!

 

天王寺・岡山合戦が始まる

 

 

毛利勝永が参加したのは天王寺口でござる。

 

豊臣方の配置と兵力
  • 天王寺口  毛利勝永 真田幸村等の14,500
  • 岡山    大野治房等4,600
  • 別動隊   明石全登  300
  • 後詰    大野治長・七手組 計15,000が

 

徳川方の配置と兵力
  • 天王寺口 徳川家康 86,200
  • 岡山方面 50,500

 

美紀姫
美紀姫
ヤスマサ、圧倒的な兵力差じゃ!これでは大阪方は勝てぬのではないか?
美紀姫様!戦は始まってみなくては分かりませんぞ!何せ最強と名高い毛利勝永殿、真田幸村殿がいますからのう

 

両勢力の布陣は以下の通りじゃ!

 

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天王寺・岡山合戦

 

毛利勝永は最強の武将か?

 

天王寺口には徳川家康が布陣しています。

豊臣勢が勝つには徳川家康殿の首を取るしかない。

毛利勝永隊4,000、真田幸村隊3,500が徳川家康殿目指して突撃を敢行した。

 

 

画像

大阪夏の陣 天王寺口

 

真田幸村隊は松平忠直隊の大軍と激闘を開始する。

毛利勝永隊は本多忠朝・小笠原秀政の両隊をと戦闘、僅かな時間で蹴散らし両将の首級を上げるでござる。

 

その後蹴散らした敵の部隊は数知れず!

下記に記すので見てください!

浅野長重・秋田実季・安藤直次・六郷政乗・仙石忠政・諏訪忠恒・松下重綱・酒井家次・本多忠純・榊原康勝 計12隊

 

す、凄まじい!!

 

真田幸村
真田幸村
家康の首を取れ~

 

毛利勝永
毛利勝永
俺も行くぞ~

 

 

そして真田幸村殿と共に家康本陣に突撃!

 

美紀姫
美紀姫
むむ、獅子奮迅の働きぶるじゃな。なんでも真田幸村殿の突撃で徳川家康殿は切腹をかくどしたと聞く
左様でござりまする。家康殿は本陣が崩れてしまい。討取られる寸前になってしまうのでござる

 

一般的には真田幸村が徳川家康を切腹寸前まで追い込んだとされていますが、今までの記事を読んでいただければわかる通り、毛利勝永なくして家康を追い詰めること等できません。

戦いが進むと、体制を立て直した松平忠直の大軍に真田幸村が衆寡敵せず討取られました。

毛利勝永は勝機は去ったと判断。

徳川の大軍を突破し、遮る藤堂高虎の隊を撃退し、井伊直孝や細川忠興等の攻撃もはね返し、見事に大阪城に退却したのじゃ!

退却戦は容易ではない。

それを見事にやり遂げたのだから、相当の戦上手であったことは間違いないといっても差し支えないでござろう!

しかしもう豊臣方に勝ち目はなかった。

翌日豊臣秀頼の介錯を行い、嫡男勝家、弟の山内勘解由吉近と共に蘆田矢倉(山里丸)で自害しました。

まだ37歳でした!

惜しい武将ですね!

 

毛利勝永が最強と窺える二つの逸話

 

毛利勝永が高く評価された逸話として下記の2つがある。

 

一つ目は、天王寺口の戦いで毛利勝永の見事な采配を見ていた黒田長政と加藤嘉明とのやりとりです。

「金ノ輪抜の旗指物の大阪方の部隊が奮戦しておる。あの部隊の大将は誰だか知っているか?」

加藤嘉明は「毛利勝永殿じゃ」と返答!

黒田長政は「ついこの間まで子供のように思っていたが、いつのまにか百戦錬磨の武将になったものじゃな~」と感嘆したという逸話が伝えられている!

 

二つ目は、江戸時代中期の文人・神沢貞幹は、自身の著した随筆『翁草』のなかで毛利勝永の天王寺口での見事な戦いを以下のように褒めたたえている。

「真田幸村は有名になったが、毛利勝永は名前が埋もれてしまった。これは非常に残念なことだ」

共に毛利勝永殿の戦での強さが評価されておるな~

 

毛利勝永が最強といわれる理由をまとめてみた

 

いかがでしたでしょうか!

今回毛利勝永が真田幸村以上の最強の武将かどうかを検証してみました。

その結果、毛利勝永は傑出した強さを持っており、最強と言われる資格は充分に持っている武将であることが判明しました。

しかし真田幸村も傑出した武将です!

どちらが最強かは判別しずらい。

それと二人共武士の心と豊臣秀頼公への忠義を大切にした義将!

立派な二人の武将たっだと評価するのが、最もふさわしいと管理人は思います。

 

最後までお読みいただき、誠に感謝いたす。

 

 

 

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