上杉景勝

上杉景勝の戦の強さは謙信譲り?軍神の後継ぎはやっぱり強いのか?

管理人のヤスマサでござる。昨今巷では上杉景勝殿の戦の強さをしりたいといった声で充満しておる
美紀姫
美紀姫
上杉景勝殿ならわらわも存じておる。軍神上杉謙信殿の後継者よのう~
左様でございまする。今回は上杉景勝殿の戦の強さを分析しとうござる
美紀姫
美紀姫
何?謙信公の後継者なのだから、そのようなことは無用じゃろう
いえ美紀姫様!戦国はいろいろありまする
美紀姫
美紀姫
それは簡単に強い、弱いは決められないということか?
左様にございまする
美紀姫
美紀姫
興味があるのじゃが、わらわは上杉景勝殿をあまり知らぬ。それでも分かるか?
もちろんでございまする。では最後までご覧あれ!!

 

上杉景勝の戦の強さはどうなの?

 

御舘の乱では

 

天正6年(1578年)3月13日、上杉謙信殿が他界。

上杉景勝殿と上杉景虎殿とで後継者争いが勃発したのじゃ!

上杉景虎殿は北条氏からの人質であったが、上杉謙信殿が養子にした御仁じゃ。

この後継者争いの主な理由は謙信殿が後継者を指名しないで急死してしまったことにある。

3月24日に春日山城本丸と金蔵を占拠した上杉景勝殿は戦況が有利になったのじゃ。

なかなか素早い行動じゃのう!

激しい攻撃を加える上杉景勝殿に対し、上杉景虎殿は春日山城下の御館(上杉憲政の屋敷)に立て籠もって徹底抗戦したのでござる。

戦況は上杉景勝殿が有利に進めるが、6月に北条家と同盟を結んでいる武田勝頼殿が景虎殿の救援のために軍勢を率いて進軍してきたのでござる。

 

美紀姫
美紀姫
上杉景勝殿はかなりのピンチじゃ!このピンチをどうはね返すのじゃ!
美紀姫様!上杉景勝殿は武田勝頼殿と同盟しましたのでござる。同盟についてまとめましたのでご覧くだされ

 

 

武田勝頼との和睦条件(甲越同盟)

  • 東上野の割譲と黄金譲渡
  • 武田勝頼の異母妹・菊姫と上杉景勝の婚約、翌年9月に正室として迎える

 

こうして武田勝頼殿を味方につけた。

中々策士じゃのう~

こんなところも上杉景勝殿の強さなんじゃろう!

こうして天正7年(1579年)に戦況があったした上杉景虎殿はとうとう自害したのでござる。

そして越後国の豪族も臣下に加わり、遂に上杉景勝殿は家中をまとめたのじゃ。

 

戦後処理じゃが、上杉景勝殿は豪族たちを粛清いたした
美紀姫
美紀姫
せっかく味方につけたのに何故じゃ?
それは自分の出身の上田長尾家と直江家の与板衆家臣団を形成することにより、上杉景勝殿に権力が集中した中央集権の体制を構築するためでござる

 

織田家との戦いでは

 

御館の乱の恩賞に不満を持っていた北越後の新発田重家殿が、織田信長と通じて謀反を起こしてきたのじゃ!

そして柴田勝家殿を総大将とした4万の織田軍に対抗するが、退却を重ねる。

また、後ろ盾となっていた武田家も滅んで、敗色濃厚となった。

天正10年(1582年)、織田軍は魚津城を落として越中国をほぼ制圧したのじゃ。

同年6月2日に織田信長殿が本能寺にて倒れる。

これにより織田軍は越中国から兵を引いたのでござる。

九死に一生を得を得た上杉景勝殿は北越後の新発田重家と放生橋で合戦に及んだ

 

な、なんと上杉景勝殿は敗北してしまうのじゃ!

 

上杉勢の損害は、

  • 上杉景勝自ら討取られそうになった
  • 安田能元(上杉25将の1人)重傷
  • 菅名但馬守、水原満家、上野九兵衛 討死に

 

上杉景虎殿の強さがまるで見えぬ大敗北じゃな!

 

慶長出羽合戦では

 

1600年(慶長5年)になると、上杉景勝殿と徳川家康殿は激しく対立することになるのじゃ!

ここで有名な直江状(直江兼続が執筆した徳川家康を糾弾する内容の書状)が徳川家康殿に送られ、対立が決定的となるのでござる。

そして遂に徳川家康殿の会津討伐が開始されるのじゃが、石田三成殿が兵を上げたため、西に引き返してしまうのじゃ!

こうして敵がいなくなった上杉景勝殿は、北方の最上義光殿を攻撃する。

この戦いは慶長出羽合戦と呼ばれる。

じゃが上杉軍の総大将は直江兼続殿じゃ!

上杉勢は勇猛に戦うのじゃが、それは直江兼続殿の采配によるものにござる。

つまりこの戦いは上杉景勝殿の強さとは関係が無いのじゃ!

結局上杉軍は関ケ原の戦いの結果に伴い敗北した。

 

大阪冬の陣では

 

画像

 

 

大阪冬の陣では、「鴫野の戦い」(しぎののたたかい)で、上杉軍は激闘している。

鴫野村は大坂城本丸からほど近い川岸にある低湿地帯で、兵の進退は堤防上でしか行えない場所にござる。

豊臣方は鴫野堤に三重の柵を設置して守備をしていた。

そこに井上頼次(黄母衣衆の一)が兵二千を率いて守備をしていたのでござる。

十一月二十五、鴫野口へ上杉勢五千が到着、南に後詰として堀尾忠晴、その後方に丹羽長重がそれぞれ五百の兵で着陣したのじゃ。

鴫野の対岸にある今福村には佐竹義宣が陣を敷いていた。

同日、徳川家康殿から二十六日早朝佐竹勢と共同し大坂方を討てとの命令が下り、早朝に攻撃を開始したのでござる。

上杉景勝殿は先鋒は須田長義、二陣は安田能元、三陣は水原親憲とした。

上杉勢は鴫野堤の柵を猛攻して強さを見せつけ、敵将井上頼次を討取ったのじゃ。

直江兼続殿は追撃しそうになる兵を止めて、奪った柵を補強して陣容を整える。

その時今福方面で大阪型の後藤又兵衛殿、木村重成殿と戦っていた佐竹勢が押しに押されていた。

上杉勢は援護射撃をするも、大坂方の優勢は変わらない。

後藤又兵衛殿は腕に銃弾を浴びてしまうが、まったく怯まず指揮を執る。

更に大坂方は天満から七手組や渡辺糺・竹田永翁達が援軍に駆けつけた。

そのため上杉勢は劣勢となり、柵を守っていた須田隊、安田隊は後退してしまったのじゃ。

ここで上杉方の水原隊は鉄砲を激しく大坂方に連射する。

加えて鉄(くろがね)泰忠が側面から猛射、味方の激しい銃撃を見て士気を上げた須田、安田両隊も引き返して奮戦し、遂には大坂方を撃退したのである。

この戦いぶりから、徳川方の武将達からは「謙信公以来の弓矢の戦い、いまだ衰えず」と敬意を持たれたとされておる。

 

上杉景勝の戦の強さをまとめてみた

 

いかがでしたでござろうか!

今回は上杉景勝殿の戦での強さをまとめもうした。

 

  • 御館の乱では勝利
  • 放生橋の戦いでは敗戦
  • 大阪冬の陣では勝利

 

うーん、放生橋の敗北は格下の新発田重家殿相手の戦じゃ!

対して「御館の乱」と「大阪冬の陣」は鮮やかに勝利しておる。

じゃがのう~戦の指揮は誰が執っていたのじゃろうか?

上杉景勝殿か?

直江兼続殿?

実際慶長出羽合戦は直江兼続殿が総大将だったし!

どうも現時点ではそこまでの情報が無く、判明しないようじゃ!

まあ、君臣水魚の交わりというもんかのう~

 

最後までご覧いただき、誠に感謝いたす。

 

 

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