近藤勇についてはご存じの方はかなりいらっしゃると思います。
新選組局長として有名ですからね!
しかし近藤勇は具体的に何した人なのでしょうか?
今回は何をした人物なのかをわかりやすくご紹介したいと思います。
それではよろしくお願いいたします。
近藤勇は何した人か?
生立ち
近藤勇は天保5年(1834年)、武蔵国多摩郡上石原村(現在の東京都調布市野水)で農業を営む宮川久次郎と、妻・ゑいの三男(幼名は勝五郎)として誕生しました。
宮川家はとても裕福であったとされ、何不自由なく育ったようです。
嘉永元年(1848年)16歳の時、天然理心流試衛館に入門します。
文久3年正月、第14代将軍徳川家茂が上洛するにあたり、将軍を警護させる目的で浪士組を結成した。
近藤勇や土方歳三、沖田総司、永倉新八等試衛館の面々は喜んで参加し、上洛する。
その後京都で浪士組の首魁清河八郎と対立し、芹沢鴨と組んで京都に残り壬生浪士組を結成しました。
この壬生浪士組は近藤勇と芹沢鴨の二人が局長を務めていました。
そして八月十八日の政変での活躍で、武家伝奏から新選組の隊名与えられました。
新選組局長就任
新選組の局長は近藤勇と芹沢鴨の二人です。
芹沢鴨は京都市中で乱暴狼藉が絶えませんでした。
そこで会津藩主松平容保は近藤勇に芹沢鴨を粛清するよう命じたのです。
近藤勇は芹沢鴨を土方歳三達に暗殺させて、新選組の実権を握りました。
新選組の有名な事件として有名なものは、やはり元治元年6月5日(1864年)の池田屋事件でしょう。
近藤勇はすぐさま志士たちが会合している池田屋に真っ先に突入、9名の志士を斬り、4名の捕縛に成功しました。
戊辰戦争
慶応2年6月(1866年)、近藤勇は新選組隊士と共に念願の幕臣になります。
近藤勇は三百俵旗本となり幕府代表の一因として各藩要人と議論や交渉をするようになります。
同年12月9日王政復古の大号令、明治元年(1868年)1月3日、鳥羽伏見の戦いが勃発しました。
この戦いは幕府軍の大敗で、新選組他の幕府軍と共に船で江戸へ敗走しました。
戊辰戦争
江戸に戻った近藤勇は甲陽鎮撫隊として、甲州の守備を任されます。
しかし板垣退助率いる土佐兵を中心とした部隊に完敗し、敗走します。
下総流山で土方歳三達と落ちあい再起の準備をしていたところに官軍に攻撃され、近藤勇は投降しました。
そして坂本龍馬暗殺の主犯と疑われ、明治元年(1868年)4月25日に板橋刑場で斬首されました。
35歳の人生でした。
なお近藤勇の首は京都の三条河原で梟首されましたが、首がどうなったのかは不明です。
近藤勇は何した人?その逸話とは!
大石内蔵助と関羽に憧れる
父の久次郎は近藤勇の幼少期に様々な偉人の伝記を読んであげました。
近藤勇は忠臣蔵が好きで大石内蔵助をとても尊敬し、新選組の隊服は赤穂浪士の装束の真似をしたものとされています。
その他には三国志の関羽に憧れ、関羽のような豪傑になりたいと思うようになりました。
強盗退治
父が留守の時、家に強盗が押し入る。
近藤勇は当時15歳。
退治しようと向かっていこうとした兄に、近藤勇は「強盗は侵入したばかりの時は気が立って危険です。帰る時は気が緩むから、その時やっつけましょう」と言ったそうです。
そして、強盗の帰り際、近藤勇は兄と共に飛び出しました。
強盗は驚いて盗品を全て投げ捨て逃げていきました。
兄が追おうとすると、近藤勇は「反撃されて怪我をするかもしれません。盗られたものは戻ったので良しとしましょう。」と言う。
常人なら慌ててしまう状況での近藤勇の冷静な判断力が伺えるエピソードですね。
こんな所が新選組局長として、隊士をうまく束ねていたのでしょう!
近藤勇は何した人かをまとめてみた
いかがでしたでしょうか。
今回は近藤勇が何をした人かをまとめてみました。
近藤勇は新選組局長として池田屋事件等いろいろな事件に関与します。
特に池田屋事件では、自ら先頭に立って斬りこみました。
こんなところが隊士に魅力的に映り、統率力に繋がるのでしょう。
まだまだ近藤勇について、書くことがありますね。
色んな記事を書いて、近藤勇の魅力をご紹介したいと思います。
最後までご覧いただきありがとうございました。
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