小牧長久手の戦いのわかりやすい解説!信雄、家康の挙兵
天正11年に秀吉は賤ケ岳の戦いで柴田勝家、織田信孝を滅ぼし天下人への道を着々と歩みはじめました。
そのことを面白く思わないのが信長の次男信雄、徳川家康です。
秀吉は一気に二人とも倒そうと信雄の家老3人の調略をします。この調略にのってしまった信雄は大いに怒り3人の家老を斬り、家康と同盟を結び挙兵をします。
家康もすぐさま出陣、天正12年3月13日清州城に入場しました。家康は秀吉がくるのは尾張だと判断し、小牧山に陣地を構築します。
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それと同時に紀伊の畠山及び根来の衆、四国の長宗我部、越中の佐々に連絡を取り、反秀吉包囲網を形成します。
秀吉は四方の敵に備えを配置し、3月21日大阪城を出発、27日に犬山に入場した。
両雄遂に相まみえん!
ここで両軍の戦力を分析してみよう!
秀吉の勢力圏:中部地方20余国
総石高:628万石
動員兵力数:157000
小牧長久手に出兵した兵力数:80000
家康の勢力圏:甲斐、信濃、駿河、遠江、三河
総石高:138万石
動員兵力34500
織田信雄軍
信雄の勢力圏:尾張、伊勢、伊賀
総石高:107万石
動員兵力;26750
家康軍と信雄軍の合計61250
この内家康は上杉、北条に対する警戒のため。信雄は伊勢方面の警戒のために兵を割かねばならず、この戦場に配置できたのは秀吉軍の半数以下であった。
兵力差はあったものの。小牧山に堅陣を敷く家康に秀吉は打つ手がなく、家康もまた大軍の秀吉に打つ手がなく、両軍睨み合いの状況が続きました。
【小牧山城】No.149 その2
主郭部から下山すると迷子に。結局、山麓部を一周しました。
お陰で小牧・長久手の戦い時の帯曲輪・土塁と空堀を拝めました。とにかく規模が大きく豊臣方が攻城を躊躇するのもよく解ります。(写真①②③、④は信長居館跡)
麓部にガイドセンターも建設中で是非再訪します。 pic.twitter.com/8ifsDx5EE0— 獅子丸♡駿府武士@もう少しで復活します! (@sunpubushi_z) January 27, 2019
小牧長久手の戦いのわかりやすい解説!長久手の戦い
この膠着状態を打破するため、池田恒興が秀吉に「岡崎奪取」を進言しました。この案に秀吉は賛成し、森河成、堀秀正、豊臣秀次を加え2万人の大部隊となりました。
近くの農民が食事などを提供しもてなしました。
最も多くの人間を喜ばせたものが、最も大きく栄える
徳川家康pic.twitter.com/ZeVdNMr4G0— 前向きな言葉 (@maemukikotoba1) October 3, 2019
しかし農民は家康と通じ、秀吉の岡崎奪取隊の動きを逐一家康に報告しました。これにより家康は岡崎奪取隊の動きを完全に掴むことができたのです。
そして家康は14000の兵を率いて出陣、池田隊に襲い掛かります。戦いは一瞬で終わりました。兵数で勝る岡崎奪取隊はどこかおごっている様子があり、慎重に軍隊を隠すようなところは無かったのです。
こうして家康隊に掴まり、各個撃破されました。池田恒興、森吉成の織田家譜代の臣が討死にしました。
秀吉は九日朝一部で小牧を攻撃させたが、徳川残留隊の巧みな迎撃にあって失敗しました。
その後互いに戦機を計っていましたが、遂に決戦の機会はありませんでした。
だがこの時期に秀吉は伊勢方面に出兵、伊勢の大部分を手中に収めます。
秀吉は5月1日に撤退、本拠大阪城に帰ります。
家康も信雄も本拠地に帰りました。
小牧長久手の戦いのわかりやすい解説!秀吉、家康どちらの勝利か?
11月上旬、今度は三者は北伊勢で対峙しました。
11日秀吉は信雄と矢田河原で単独会見し和睦しました。
織田信雄(1558 – 1630)。織田信長の次男。本能寺の変後、尾張清洲城主。1583年に徳川家康と結び秀吉と戦う(小牧・長久手の戦い)が、翌年和睦。大坂の陣では家康に味方し、大和に五万石を与えられた。戦略は無能であったと伝えられる。 pic.twitter.com/EY9MkQLfYS
— 肖像画bot(試験運用中) (@botportrait) October 4, 2019
この和睦で家康は戦う大義名分を失ったのです。
しかし家康は秀吉と和睦しませんでした。何度使者を送っても家康はうんといいません。
11月21日に秀吉が家康の第二子於義丸を養子にすることでようやく和睦しました。
そして天正13年の春から夏にかけて秀吉は紀伊と四国を平定、八月には越中に拠る佐々成正を攻めて29日に成正が降伏し、北陸は完全に支配下に置いた。
その後秀吉は関白となり、14年10月に家康を臣従させました。
秀吉軍は長久手で家康に敗北を喫しているが、巧みな外交戦略を展開して敵を次々と各個撃破し、天下取りとしての地位を築いたのだから、どうみても秀吉の大勝利と言えよう。