幕末

久坂玄瑞とは何した人?面白い逸話をご紹介!!

久坂玄瑞をご存じでしょうか?

余り脚光を浴びていない人物かもしれませんね。

ドラマや本で主人公になるのは、高杉晋作がどうしても多い。

その晋作のライバル役としてよく登場してくる人物です。

その久坂玄瑞はいったい何した人なのでしょうか?

面白い逸話と共に解説いたします。

 

久坂玄瑞とは何した人?

 

吉田松陰との出会い

 

久坂玄瑞は1840年に長州藩藩医の久坂家に生まれました。

長身、兄も早くに亡くなり、15歳の時に家督を継ぎます。

幼少の時から大変な苦労をしましたが、秀才として有名でした。

17歳の時に3か月の九州遊学に出て、後に高名な尊攘の志士となる宮部鼎蔵(池田屋で新選組と戦って斬り死に)と会います。

その宮部鼎蔵から吉田松陰が優れた人物であるから、勉学を学ぶように勧められました。

そこで玄瑞は松陰に手紙を書きました。

二人のやり取りを簡単にまとめると、

久坂玄瑞
久坂玄瑞
外国から国を守るために、まずは日本に来ているアメリカの使節を斬る。そうなればアメリカと戦争になります。戦争になれば太平に慣れた武士も国防に目覚めて戦うため、必ず国を守れます
君の言っていることは思慮が浅くて議論が浮ついている。おまけに至誠がない。私はこのような文章が大嫌いだ。そして書く人も大嫌いだ

と松陰は凄まじい批評を加えました。

 

しかし一流の人物は考え方が違います。

友人への手紙に以下のように書いています。

玄瑞は優れた人物です。僕は玄瑞を大人物に育てたい。だから本気で反論しました

この後も二人の手紙でのバトルは続きます。

久坂玄瑞は長州でも指折りの秀才。

知識が凄いので、松陰に散々に噛みつきます。

 

玄瑞はまだまだ甘い。アメリカの使節を斬ることで国を救えるなら斬ればいいといってやった。つまり理論には実践が伴わなければ意味がないことを教えたんです。玄瑞なら分かるはず
久坂玄瑞
久坂玄瑞
むむ、確かに!アメリカの使節を斬る方法が思いつかん!これではいくら大きいことを考えても何もできない!僕の負けだ・・・

安政4年(1857)に玄瑞は吉田松陰に弟子入りしました。

 

加熱する尊王攘夷運動

 

久坂玄瑞は松陰の指導の下、日夜勉学に励みました。

そして高杉晋作、吉田栄太郎、入江九一と松下村塾四天王と評される程の人物になったのです。

しかし安政6年(1859)、安政の大獄により吉田松陰はとうとう処刑されてしまいました。

玄瑞は師の遺志を継ぎ、激しい尊攘運動に身を投じます。

ところが思わぬことが起こります。

文久2年(1862年)、薩摩藩主島津久光が兵を率いて上洛。

そして久光の幕政改革案で新たに設けられた京都守護職に就任した会津藩藩主松平容保も、兵を率いて上洛しました。

過激な尊王攘夷派の長州とは違い、薩摩藩、会津藩は穏健な政策を重視する公武合体派であり、朝廷への忠誠心が強いため、孝明天皇は非常に信頼しました

そこで焦ったのが久坂玄瑞たちの過激志士です。

久坂玄瑞
久坂玄瑞
このままでは薩摩、会津に主導権を取られてしまう

そこで文久2年(1862)12月、彼らは品川御殿山に建設中の英国公使館焼き討ちを実行したのです。

久坂玄瑞
久坂玄瑞
まだまだだ。もっとやらなければ長州は薩摩、会津より遅れてしまう

玄瑞は焦っていました。

文久3年(1863)5月10日から、関門海峡を通行する外国船への砲撃を開始しました。

玄瑞たちの行動は、どんどん過激になっていきますね!

しかし同年6月1日と5日に報復に来たアメリカとフランスの軍艦から激しい攻撃を受けて、軍艦2隻撃沈、民家まで焼かれるという大敗北を喫したのです。

高杉晋作
高杉晋作
この敗北から僕が藩に登用され、奇兵隊を結成したんじゃ

 

禁門の変

 

 

文久3年(1863)8月、長州藩は禁裏(孝明天皇が居住しているところ)を会津藩、薩摩藩と守護していましたが、突如宮門警衛の任を解かれ、禁裏への出入りを禁じられてしまいました。

長州は大変なことになってしまったのう!実は孝明天皇は攘夷は重要だが幕府を中心にしてみんなでやるべきだ。長州のみでやっている攘夷は違うとお考えになっていて、過激な事も好まれなかったのじゃ!だから長州には反感を持つようになり、そこに嫌悪感を抱く幕府や薩摩藩と会津藩がのっかったというわけだ

 

玄瑞達は長州に引き返すしかありませんでした。

師の松陰以来尊王を掲げて生きてきた玄瑞は、とても悔しいことだったでしょう!

元治元年(1864)6月、玄瑞は「君主の無実の罪をはらすための嘆願」をするために、来島又兵衛、福原越後等と共に兵を率いて上洛しました。

久坂玄瑞は戦うのに反対でしたが、来島又兵衛、真木和泉等の主戦派の意見が通り戦うことに決してしまいました。

これは無謀な話しで、長州兵約2000名、幕府諸藩兵2万~3万。

勝てるはずもなく、来島又兵衛は狙撃されて自害。

松下村塾四天王の一人入江九一も戦死。

そして玄瑞も鷹司邸内で寺島忠三郎と胸を刺し違えて自害しました。

僅か25歳の人生でした。

 

 

久坂玄瑞は何した人?面白い逸話とは!

 

久坂玄瑞の結婚

 

久坂玄瑞は吉田松陰の妹・文ということは有名ですね!

さてその二人が初めて会った時、文は玄瑞の180cmを超えている長身で整った風貌、色白で知的な雰囲気を携えているルックスに一目惚れ!

「お地蔵さん」との愛称を付けたのだとか!!

一方玄瑞は文の容姿が気に入らないため、な、なんと結婚を断ろうとしていたんだそうです!!

しかし年配者に容姿で結婚相手を決めようとすることを厳しく注意され、心を変えて結婚に応じたという話が残っています。

 

坂本龍馬との関係

 

久坂玄瑞は土佐藩勤王派のリーダー武市半平太と連絡をよくとっていました。

その関係で玄瑞と坂本龍馬は会っていたとされていたとされ、大きな影響を与えたと考えられています。

文久2年(1982)に龍馬が萩を訪れた時、玄瑞が半平太に手紙を送っています。

その要点は次の通りです。

「諸侯たのむに足らず、公卿たのむに足らず、草莽志士糾合義挙のほかにはとても策これ無き事」「尊藩(土佐藩)も弊藩(長州藩)も滅亡しても大義なれば苦しからず」

 

大名も公卿も当てにはならない。

身分を問わず、志のある者を集めて事を起こすしか方法はない。

土佐藩(龍馬の所属する藩)も長州藩(玄瑞の所属する藩)も大きな目的を達成するためなら滅んでも仕方ないと思う

 

吉田松陰の草莽崛起に基づく理論ですね!

龍馬の胸に共感を呼んだのでしょう!

この1か月後、土佐を脱藩しました。

 

久坂玄瑞は何した人かまとめてみた

 

いかがでしたでしょうか。

今回「久坂玄瑞とは何した人?面白い逸話をご紹介!!」についてまとめました。

玄瑞は吉田松陰から認められるほどの大変な秀才で、長州藩の尊攘運動をリードしてきた優れた人物です。

短いながらも激しい人生でしたね!

久坂玄瑞に少しでも興味を持ってくださったら幸いです。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

 

 

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