戦国時代

朝倉義景はどんな人?性格が滲み出ているエピソードをご紹介

朝倉義景という戦国大名を知っている方は大勢いると思います。

何故かと言えば、織田信長と長年戦ってきた相手だからです。

そして武将としての能力が余りないということも知られていると思います。

しかしご存じなのは信長と争ったという事と能力の面だけではないでしょうか?

今回朝倉義景がどんな人で、どんな性格をしているのかを中心にまとめました。

お楽しみいただければ光栄です。

 

朝倉義景はどんな人?人間性を徹底検証!

 

朝倉義景の経歴

 

弱腰の性格

 

朝倉義景殿は越前国の戦国大名で朝倉氏の第11代当主です。

当主となったのは16歳であったため、名将と名高い従曾祖父の朝倉宗滴(教景)殿に軍事、内政を補佐されていました。

美紀姫
美紀姫
というよりは、仕事を朝倉宗滴殿に丸投げだったと聞く((+_+))

弘治元年(1555年)に宗滴殿が他界してしまったので、朝倉義景殿は仕方なく政務を執りました。

永禄8年(1565年)に義秋(後の将軍足利義昭)が越前に来訪。

これは義秋を奉じて上洛し、天下に号令するチャンスなのじゃが、なんと朝倉義景殿は何もしなかったのでござる。

朝倉義景
朝倉義景
京都は三好氏が占領していたのじゃ!三好氏は強い。朝倉だけではとても勝てないのじゃ!それに背後には勢力を急拡大させている織田信長もいるしのう

と言っていたようです。

美紀姫
美紀姫
それでも戦国大名か!このような弱腰な対象では家臣も落ち着けなかったろうに!それに比べて信長殿は違うのう~

結果として朝倉館で元服した足利義昭殿は、朝倉義景殿を見限り織田信長殿の元へ行ってしまうのじゃ!

 

画像

足利義昭

 

軍事的才能が全くなかった

 

織田信長は上洛して三好氏を撃退して足利義昭を将軍にさせました。

そして全国の諸大名に上洛命令を出し、当然朝倉家にも上洛命令を出したのです!

ところが朝倉義景は応じない。

朝倉義景
朝倉義景
ここで上洛すれば、信長の配下になる恐れがある。誰が行くか

一向に上洛しない朝倉義景。

そこで織田信長の討伐を受けることとなった。

これは信長殿にしたら、願ったりかなったりじゃろう。朝倉討伐の大義名分を手に入れられたのじゃ~

金ヶ崎の戦いでは織田信長の妹婿の浅井長政が突如信長を裏切り義景を助け、織田軍の後ろから攻め立てたため大勝利を収める。

しかしこの絶対的有利な状況で信長を取り逃がしてしまう!

そして姉川の戦いで大敗、その後衰退の一途を辿る。

その後、盟友浅井長政、本願寺等の仏教勢力、武田信玄と信長包囲網を作って対抗するが、最大の戦力の武田信玄が他界してしまったのです!

そうなると織田軍は浅井、朝倉に主力を向けることができるため、大軍で激しい攻撃を開始した!

美紀姫
美紀姫
1573年8月にいよいよ織田信長殿の朝倉攻めが開始されたのじゃ。越前の諸将は義景殿の出陣命令を拒否!あるいは信長殿に調略されていきました。弱腰で優柔不断な義景殿を見限ったのじゃ

朝倉軍はあちこちで敗北、同年8月20日に朝倉義景はどうにもならない状況に陥り自害した。

享年41歳でした!

 

教養のある文化人だった

 

当主になった直後は朝倉一門きっての名将朝倉宗滴が軍事面、内政面を仕切っており、大きな戦も無かったため越前国は治安が良く平和じゃった。

そのため数多くの公卿や文人墨客、芸能者が戦乱から逃げてきて身を寄せていました。

その文化人達が越前国一乗谷に京文化を伝えたため、朝倉家の居城がある一乗谷の文化は「もう一つの京」と言われる程レベルが高かった。

朝倉義景
朝倉義景
儂自身も歌道や茶道を初めとする色んな芸事に励んでいたぞ~

朝倉義景は芸事はかなりレベルが高かったようであるが、戦国大名なのに文化人との遊興に熱中してしまったのじゃ( ;∀;)

この人物に武略という文字はないらしい!!!

 

戦国大名なのに戦に参加しない

 

朝倉義景殿は、何を考えていたのか拙者にはとんと分からぬが、姉川の戦いという織田信長との決戦になんと出陣しなかった!

従兄弟の朝倉景健を総大将にして、戦を丸投げした!!!

美紀姫
美紀姫
武門の統領がなんたることよ・・・

朝倉義景はその後の戦も出陣しなかったが、志賀の陣では珍しく出陣した!

だがしかし・・・

信長は四方に敵を構えて窮地にあった。

織田軍を殲滅できるチャンスだったが、信長有利の和解工作にさっさと同意して越前に帰ってしまったのじゃ!

朝倉義景
朝倉義景
儂は荒々しいことが嫌いなのじゃ
美紀姫
美紀姫
もし信長殿を攻撃していれば、織田軍を壊滅できる好機であったのに・・・
義景殿は自分の領国が攻め込まれなければ、それでいいということじゃろう!

 

戦国大名としての自覚はあったの?

 

また、武田信玄が西上作戦で西進した時でも、信玄が義景に織田信長の背後を突いてくれと要請したのじゃ!

背後を突けば信長殿を撃滅するチャンス!

朝倉義景
朝倉義景
信玄殿、悪いが帰ります。部下も疲れているし、雪も降ってきたし!

部下が疲れている!

雪のため!

このような理由で撤退する武将はいないだろう。

この撤退は武田信玄殿を非常に怒らせた。そして批判する書状が送られておる!そのような理由で撤退した人は聞いたことが無いから当然と言えば当然じゃのう
美紀姫
美紀姫
朝倉義景殿には闘志が足りぬ。いや戦国大名としての自覚はあったのだろうか?

 

愛情深く優しいが、女性にかなり弱い

 

1568年に朝倉義景殿の嫡男・阿君丸が亡くなりもうした。

その事で悲嘆の余り政務を行えなくなってしまった。

この嫡男の死が義秋からの上洛要請に応じなかった理由だとされておる
美紀姫
美紀姫
天下人になりたくなかったのかのう!それよりも家族の方がが大事な存在だったのかもしれぬな

義景はふさぎこみ、とても悲しんでいたことから、心配した家臣が小少将を側室にとることを勧めた。

1570年に小少将は男児を出産(愛王丸)、義景殿は小少将と愛王丸を溺愛したのじゃ!

妻子を愛するのは構わぬが、朝倉義景殿は政務を更に行わなくなってしまった。戦国大名としてはいかがなものかのう~

小少将は類まれなる美貌の持ち主で、義景は虜になってしまったのです。

その惑溺ぶりは酷く、昼間から酒宴をしていたといいます。

そして政治にも小少将とその取り巻きが口を出し、小少将を溺愛していた義景はいいなりだったとされます。

国家の政(まつりごと)に自分の妻を参加させるとは・・・

 

朝倉義景はどんな人?性格が滲み出ているエピソードをまとめてみた

 

いかがでしたでしょうか!

今回は朝倉義景殿がどんな人でどんなエピソードがあるかをご説明しました。

 

今日のまとめです!

 

  • 凄く教養があった
  • 戦の大半は人任せであった
  • 家族への愛情が深かった
  • 野望が全くなく、戦はやる気がなかった

 

この朝倉義景殿の戦国大名としてふさわしくない数々の行動から、最後は大勢の部下に裏切られて、名門朝倉家の当主としては寂しい死を迎える。

平和が似合う人物だったのだろう。

 

最後までお読みいただき、誠に感謝いたす。

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