明智光秀

明智光秀の謎に満ちた生い立ちや経歴を資料を基に徹底分析!!

管理人のヤスマサでござる。本日は明智光秀殿の経歴について調べ申した!
みほ
みほ
明智光秀さんの経歴?美濃の明智家の出身じゃないの?
うーん、どうなんだろうか?
みほ
みほ
なに?違うの?
説明するのが難しい故に記事を読んでくだされ!では最後までご覧あれ!!

 

明智光秀の謎に満ちた生い立ちや経歴について

 

 

https://twitter.com/usatamago/status/1118168330957811712

 

 

明智光秀の生い立ちや前半生の経歴を調査しましたが、確実な資料は存在しないことに辿り着きました。

土岐明智家の出身とされますが、土岐明智家が土岐系譜のどこに位置づけられるのかは不明であり、歴史学者の研究が進まなければ解明されない状態です。

明智光秀の経歴等が初めて確実な資料に現れるのは、信長が上洛して半年程した永禄12年(1569)4月のことです。

それは加茂荘中に宛てて税と軍役について発令した4月14日付の木下秀吉との連書状です(沢房次史所蔵文書)。

これ以降明智光秀は京都・畿内の行政担当の一人として活躍するので、光秀の発給文書は頻繁に見られるようになります。

確実ではないですが、ほぼ間違いないといえる資料をたどると、明智光秀のデビューはその年の1月5日に見受けられます。

この日、三好三人衆が新将軍義昭の仮御所である六条本圀寺を攻撃しました。

本圀寺には、わずかな将軍の親衛隊のほか美濃衆と若狭衆が将軍を護衛しており、敵軍の攻撃に対して果敢に戦い将軍を守り切りました。

このことは信長公記に記載されており、「明智十兵衛」の名前も載っています。

この時のポイントを見てください。

 

光秀の身分はなに?

・信長の家臣だったのか?

・足利幕府の幕臣だったのか?

 

この年の4月から光秀は秀吉・丹羽長秀等の信長の家臣と連名で京都と畿内の政務に励んでいるので、信長の家臣と見るのが妥当だと考えます。

ただ明智光秀は足利義昭と以前から親しくしていた可能性がかなり強いと思われます。

光秀は織田家中で将軍にもっとも近い特殊な性格を持った人物と言えますね!!

 

明智光秀の経歴!信長に仕えるまで!資料から徹底分析!!

 

明智光秀殿の経歴で、信長公に仕える前の状況を表している記述があり申す。見てみよう!

 

・当代記

一僕の者(たった一人しか十社のいない貧しい武士)、朝夕の飲食さへ乏かりし身

・宣教師ルイス・フロイスの書面

卑しい生まれの人

 

この資料による記述から、明智光秀が貧しい浪人暮らしを送っていたことがうかがえます。

ただ何年間浪人暮らしをしていたのかまでは、確実な資料がありません。

その後越前朝倉家に仕えます。

このことは細川家記(細川家の家史)に記されています。

この細川家記では、光秀は「将軍義昭を奉じて京都に上れる大名は織田信長しかいない」と細川藤孝に語り、信長に仕え、その後藤孝が光秀を頼って信長に会い、義昭の帰洛を願いでたと記しています。

ですが実際には義昭が信長に手紙を送って帰洛を依頼したのは3年も前のことです。

そのためあらためて必秀を頼る必要はありません。

したがってこの記述も鵜呑みにはできません。

しかし明智光秀が上洛後に見せた京都を舞台にした活躍ぶり、また、信長が新参者の光秀をすぐに優遇した理由を考えると、光秀がしばらく京都で暮らし、加えて幕臣であった可能性もうかがえるといえます。

明確にならない明智光秀の経歴!

まさに謎めいた男といえますね!!

 

明智光秀の謎に満ちた生い立ちや経歴を資料を基に徹底分析!!まとめ

 

いかがでしたでしょうか?

明智光秀の経歴について調査し、記事を執筆いたしました。

その結果、信頼のおける資料は余り存在しないことが明らかになりました。

一つには謀反人であり、必秀の縁者は逼塞していきたため、明確な資料を残せなかったことが挙げられます。

また、光秀自身も浪人、朝倉家の家臣、更には幕臣であった可能性もあり、一ヵ所に留まらなかったことも確かなことを記すのを困難にさせていると思います。

麒麟が来るでは、この謎めいた明智光秀の経歴をどう描写するのか楽しみですね!

最後までご覧いただきありがとうございました。

 

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