歴史

手取川の戦いは軍神上杉謙信最後の戦となった大戦!勝家に圧勝!!

管理人のヤスマサでござる。今回は越後の龍こと上杉謙信公の最後の戦となった手取川の戦いについて説明していこうと思う。
みほ
みほ
謙信公って戦国最強といわれている武将よね!
そうでござる。あの甲斐の虎武田信玄公と互角の存在とされているんだ。
みほ
みほ
でも戦場で無敵の強さを発揮するって、相応の工夫をしているんでしょ?
いい質問にござる。その辺を追々と説明していこうとおもう。

 

手取川の戦い!!上杉謙信、織田軍を待ち構える

 

天正5年(1577)年9月15日、七尾城の攻略に成功した同月17日能登の要衝末森城を落とし、能登を統一しました。

勢いに乗る上杉軍は加賀一向一揆を味方につけて兵3万を率いて松任城へ入場します。

この時謙信は加賀一向一揆の助成もあって七尾城に向かって進撃してくる織田軍の動きを完全に掴んでいました。つまり越前から加賀に進み、小松、本折、安宅、富樫らの本願寺一揆勢を焼き討ちしながら北進中との情報を得ていました。

織田軍は柴田勝家、明智光秀、羽柴秀吉、前田利家、滝川一益、丹羽長秀、佐々成政という織田家屈指の武将達だということもつかんでおり、信長が謙信と決戦する気でいることが伝わってきました。

それを聞いた謙信は「堂々これを迎撃せん」と決意します。

 

一方織田軍は七尾城陥落をまだ知らなくて手取川を渡り、加賀北部に進撃、石川郡水島に駐屯します。この手取川を渡るかどうかの軍議で柴田勝家と羽柴秀吉が口論となり、秀吉が信長の許し無くかえってしまうという事件が起きます。それでも手取川を渡ってきたのですから勝家も並々ならぬ覚悟を持っていたのでしょう!

9月23日、七尾城陥落の情報をようやっと入手した織田軍は深夜に撤退を開始します。

ところが織田軍陣地から指呼の距離にあった謙信が入場していた松任城には、織田軍が手取川を渡り退却しようとしているとの情報がいち早く伝わり、謙信は即座に攻撃を決意、織田軍を急襲し襲い掛かります。

 

 

上杉軍は丁度手取川を渡ろうとしている織田軍の背後を突く形となっており、戦いは一方的に進みました。

上杉軍は勢いづき、織田軍を圧倒、手取川に追いつめられるもの数知れず、逃げ遅れた者1000人余りをことごとく討取るという大戦果を上げました。

ちなみに手取川はこの時連日の大雨で水かさが増しており、激しい濁流となっていました。手取川という名前の由来は、木曾義仲が渡河しようとした時に流れが激しかったため、流されないように手をつないで渡るようにと指示をしたことから名づけられました。

 

この時背後にいた信長は、勝家隊が敗走したと聞いて、ただ一騎馬首を返して真っ先ににげかえったといわれています。

そのことを皮肉った京童の歌が今も残っています。

 

「上杉に逢うては織田も手取川

はねる謙信逃げるとぶ(信)長」

 

手取川の戦い!!上杉謙信その後!!

 

手取川の戦いの後、9月26日に能登七尾城に戻り城の修復を行っています。その際本丸で読んだとされる漢詩があります。

「霜は軍営に満ちて秋気清し

数行の過雁月三更

越山併せ得たり能州の景

さもあらばあれ 家郷の遠征を懐うは」

この漢詩は謙信自身の作とされていますが真偽のほどは定かではありません。

ですが謙信の胸中をうまく描写しているものといえます。

管理人には翌年に行う大作戦への覇気がにじみでているかのように見受けられます。

こうして手取川の戦いにより一大勢力となった謙信ですが、6か月後の翌年3月に49歳で他界しました。

戦国最強の武将も病には勝てませんでした。

実に惜しむべき名将ですね。

 

参考として川中島の戦いの記事を添付しておきます。ご興味のある方は是非お読みください。

https://nanapapa0303.club/takedasingen%ef%bc%8fkawanakajima/kensin/tedorigawa

手取川の戦いは軍神上杉謙信最後の戦となった大戦!勝家に圧勝!!

 

いかがでしたでしょうか?

今回は上杉謙信の手取川の戦いにクローズアップして記事をまとめました。

上杉謙信は軍神と呼ばれるだけあって、その作戦は実に冴えわたるものがありますね。

私のような凡人には無理な領域に生きている人だったと思いますが、いつか人物性を記事にしてみたいと思います。

最後までお読みいただきありがとうございました。

 

 

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