秀吉

小田原征伐とは!!両軍の動きをわかりやすく簡単な解説!!

管理人のヤスマサでござる!今回は秀吉殿が行った小田原征伐とはどうい戦いだったのかについてまとめていきたいと思う。
みほ
みほ
小田原征伐で秀吉が天下統一を完成させたんでしょ?
奥州が少し残っていたがほぼ完成させたでござる。なぜ関東攻めで奥州まで影響を及ぼしたのかは順を追ってみてみよう。

 

小田原征伐とは!!秀吉軍進撃

 

秀吉は大正14年念願の家康を臣従させ、15年には九州を平定し、関白太政大臣に任じられた。ただ真の天下人となるには関東北条氏を倒さなければならなりませんでした。

天下の名城小田原城に拠る北条氏は関東一円に勢力圏を持つ大大名で、その討伐は簡単に終わりそうではありませんでした。

 

ここで両軍の戦力比をご覧いただきたい。

 

秀吉軍

 

領国 日本の大半58国

1605万石

動員兵力422000人

この他に反北条勢力として佐竹氏、宇都宮市、結城氏、多賀谷氏、

水谷氏、那須氏等が秀吉に誼を通じてきた。

 

北条軍

領国 関東の大半と駿河の一部

285万石

71000人

但し秀吉軍より兵の数は少ないものの、天下の名城小田原城

を擁している。

 

天正18年2月1日から3月1日にかけて秀吉軍は小田原に向けて遂に出発しました。

秀吉もまた3月1日に天皇に拝謁節刀を賜り京都を出発、17日に沼津に到着しました。

天下統一はもうすぐ。秀吉は燃ゆる思い出いたことでしょう。

 

小田原征伐とは!!小田原城の包囲

 

北条軍の動きを見てみよう。

1月20日、小田原で防衛作戦会議が開かれました。北条氏邦は「富士川または黄瀬川に出撃して戦う」、松田憲秀は「箱根の険を利用して持久防御する」とそれぞれ主張したが、結局小田原城で籠城することに決まりました

この籠城の背景には、北条軍が秀吉政権が不安定だと誤認し、長期に籠城していれば引き返さざるをえなくなるだろうとの見方がありました。

小田原征伐とは!!北条軍小田原城に籠城する

 

小田原城は北条数代のうちに幾度かの工事で拡大され、東南は海岸、東北は酒勾川、西南は早川に託した広大な地域に建設されていました。

包囲するだけでも相当な兵力を必要とするでしょう。

城に籠った兵は56700人。

食料、弾薬も充分に備蓄されていた。

籠城するのに十分な戦力である。

北条氏政、氏直父子は自信満々だっただろう。

 

小田原征伐とは!!小田原城攻囲戦

 

秀吉は4月3日までに小田原城を完全に包囲しました。

城の包囲体制は城東に家康隊、城北に秀勝、秀次隊、城西に宇喜多隊、城南に池田、丹羽、堀、長谷川、木村等の隊17800人。

この他に水軍6600人が海上を封鎖していた。

 

 

秀吉は石垣山に城を築いて戦闘指揮所とした。これが一夜城といわれるものである。

この一夜城は一日で築いたかのように北条軍に思わせて大いに士気を削いだといわれていますが、実際は4万人を動員し、80日もの時間をかけて完成させたものです。秀吉は戦闘指揮所とするとともに、淀君や側室、千利休を呼んで和気あいあいとした時間をすごしました。

4月上旬、小田原城はばだ落ちません。そこで秀吉は小田原城以外の北条領の城を攻めました。北条の支城は次々と陥落。

次に伊達、最上を含む奥羽の武将の帰服を促進しています。

 

こうして小田原城は完全に孤立します。

7月6日小田原城が降伏し開城しました。

その時は既に関東は秀吉が手中に収めていました。

そして8月9日に秀吉が会津に行くと奥羽は全て帰服し、秀吉による天下統一が完成しました。

小田原征伐とは!!両軍の動きをわかりやすく簡単な解説!!

 

いかかでしたでしょうか

秀吉の小田原征伐の両軍の動きをわかりやすく簡単な解説をしてみました。

この戦いの結果、秀吉は天下統一をします。

天下取りにふさわしい戦いでしたね。

私も小田原城を見学にいきたいと思います。

最後までお読みいただきありがとうございました。

 

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