秀吉

高松城の水攻めの実態!!豊臣秀吉得意の城攻めの知略が冴える!!

管理人のヤスマサでござる。今日は秀吉殿の高松城攻めに焦点を合わせていきたいと思う。
みほ
みほ
高松城って有名な水攻めをされた城でしょ?
左様!秀吉殿らしい奇抜な策といえる水攻めを行った城に候!!
みほ
みほ
具体的にどうやったら水攻めができるのかしら!
順を追ってみてみよう!!

 

高松城の水攻めの実態!!豊臣秀吉の高松城攻めの経緯!!

 

天正10年1月、信長は秀吉に毛利征伐を命じました。

この命を受けて3月15日に秀吉は姫路を出発、4月4日に宇喜多秀家が拠る岡山城に到着し、戦闘準備を開始します。

最初の目標は岡山城から8キロの地点にある、毛利家の最前線にある高松城です。

秀吉は宇喜多勢を併せて3万の兵を率いて高松城に向かい岡山城を出発、27日に高松城の攻囲を完成させました。

 

ここで高松城の戦力を見てみよう
高松城の戦力

城主 清水宗治

毛利家譜代の臣 毛利家に対する忠誠心は強い

兵数3000

小早川隆景の援兵2000

農民500(領主の善政を慕い志願した農民)

計5500

難攻不落の山城で、防御力は非常に高い

 

うむ、落とすのには手間取りそうだ。下は秀吉軍の高松城包囲の図でござる。

 

 

高松城の水攻めの実態!!豊臣秀吉の水攻めの威力!!

 

4月27日、秀吉軍の一部が高松城に攻撃し撃退される。

秀吉はこの結果から強攻は無理と判断、城の高さが僅か4メートル程しかなかったことと梅雨の時期であったことから水攻めが効果的と判断しました。

5月8日から19日までの12日間で30キロ弱の堤防を築き、高松城周囲を流れる足守川その他付近の川水を塞ぎ留めました。

 

 

 

たちまち堤防から山麓に亘る約200ヘクタールの地域が湖と化しました。

 

この水攻めで城中は水浸しになりました。そのため城兵は初めは二階や天井に上がっていましたが、6月2日には残すところ僅か数尺となってしまい、城兵は高い梢に板を渡して集まっていたといわれています。

一方秀吉は堤防に柵を作り数百メートル毎に哨戒所を設けて昼夜関係なく監視し、城と外部との連絡を遮断し、堤防の破壊をさせないようにしました。

こうして高松城をどんどん追い詰めたのです。

 

高松城の水攻め!!豊臣秀吉の高松城水攻めの結末!!

 

高松城の苦境を見て、毛利家は援軍を送ってきた。

5月22日、吉川元春、小早川隆景が3万の兵を率いて、高松城の救援にやってきました。そして毛利輝元も高松城から20キロ程の猿掛山までやってきました。

しかし秀吉の堅陣には隙がなく、高松城を救援することができずにいました。そして小早川隆景は清水宗治に使者を送り、「我々の力ではどうしようもできない。秀吉に降伏しなさい」と申し伝えました。

これにより清水宗治は城を守るのは不可能と判断、秀吉に降伏し、城兵の命を救う代わりに自分が切腹すると申し入れます。

秀吉も了承、6月3日夜に講和をし、四日に宗治の切腹を検分しました。

実は6月3日夜に秀吉は本能寺の変を知り、慌てて講和をしました。そして5日午前2時に撤兵を開始、明智光秀討伐の軍を起こすのです。

 

高松城の水攻めの実態!!豊臣秀吉得意の城攻めの知略が冴える!!まとめ

 

いかがでしたでしょうか?

今回は秀吉の行った高松城の水攻めを調査し記事にまとめました。

秀吉らしいスケールの大きい城攻めだったのですね。

立ち向かった清水宗治も立派な武将です。

機会があれば宗治のことも詳しく調べてみたいと思います。

最後までお読みいただきありがとうございました。

 

 

 

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